「植民地文明(4)」(2020年12月24日)

その時代、世界の景気はオランダ領東インドに好況をもたらし、欧米資本が集まって来た。
1909年には一年間で175もの新規会社が設立され、諸分野の専門家が集められて白
人コロニーに知識層が急増した。仕事や新たな人生を求める女性の移住も増えた結果、前
世紀まで圧倒的に男性偏重社会だった東インド白人コロニーに質的変化が発生し、男女比
が均衡へと向かいはじめる。

教育レベルの高い人材を雇用するために人件費も上昇し、独身男性がヨーロッパ女性を容
易に妻にできる環境が醸成されていったことから、安上がりの被支配民族プリブミ女性を
ベッドの友にする必要性も大幅に減少した。


東インドコロニーにやってきた欧米人は自分たちの本国と同じように文明的な生活環境を
植民地の各都市に求めた結果、バタヴィアのメンテン地区、スマランのチャンディバル地
区、スラバヤのダルモ地区などのヨーロッパ人向け新興住宅地区が開発され、ナイトライ
フの諸施設、プールやテニスなどのスポーツ施設、映画館や劇場などの娯楽施設が完備さ
れて欧米の文明に従った生活が営まれようになった。

白人コロニーでは、かれらへのサービスを行う必要最小限のプリブミがそこに関わるだけ
で、おまけに使用人として用があるときしか表に出て来ない在り方が普通とされたために、
非意図的な一種のアパルトヘイトの形式が進行した。

スポーツ施設にVerboden Toegang voor Honden en Inlanderという犬とプリブミの入場を
禁止する掲示が貼り出されたのは意図的で顕著な例外である。ちなみにverbodenは禁止を
意味する言葉でしかないが、インドネシアではそれ自体が進入禁止を意味する言葉にされ、
進入禁止の交通標識はフェルボーデンと今でも呼ばれている。


昔あったコロニー暮らしをひしひしと感じさせるさまざまな生活習慣は白人居住区から姿
を消した。プリブミと混じって生活するスタイルは激減し、ヨーロッパ人ニョニャがサロ
ンとクバヤを着ることもなくなり、ヨーロッパ人男性が身体を包み込むジャケットを着る
こともなくなり、ヨーロッパ最新流行の色とりどりのファッションに満ちあふれ、夕方に
なると夜を迎える気分を煽るために苦味を利かせたパイチェと呼ばれる飲み物をベランダ
で飲む習慣も消え失せた。

1915年ごろには、ヨーロッパ人がプリブミと接触するのは家で雇っている使用人だけ
になり、男性はそれ以外に職場で最下級レベルの職員と接触することがあるかないかとい
った形が社会生活のスタンダードとされるようになる。


そんな情勢が、植民地の倫理生活も真の文明人としてのものになるべきだという考え方に
追い風を送った。第一次大戦が終わったころには、トアンとニャイという同棲関係は社会
生活において容認しえないものという見方が優勢になっていた。

1909年に第65代総督に着任した進歩派のイデンブルフはそんな社会情勢を追い風に
受けて、ニャイを持つ政庁職員は捨て置けないという訓令を垂れた。行政が社会の不満を
くみ上げたという構図になったわけだ。ニャイに関するマキアヴェリストが口を閉じる番
がきたのである。

文民社会はそのような形でニャイ制度が終息して行ったのだが、その当時もっと世間を騒
がせたニャイスキャンダルがあった。それが兵舎のニャイ制度だ。蘭領東インド植民地軍
兵舎の中で、兵士がニャイを持ち、子供を作り、周囲のベッドで寝ている同僚兵士を気に
もかけずに男女の睦ごとを行っている姿がそこにあったのである。

その実態はオランダ王国東インド植民地軍KNIL発足以来行われてきたことであり、一
般社会人の目から遠い兵舎の中という特殊な環境において、文民社会のニャイほどの風当
たりの強さがなかったとはいえ、それがひとたび政治問題に発展したとき、オランダ本国
と東インド植民地の社会に大スキャンダルが巻き起こった。

KNILのプリブミ兵士だけが兵舎内で家族生活をしていたなら大問題になろうはずがな
い。しかし兵士が暮らす兵営はプリブミとヨーロッパ人が共同で住んでいる。毎夜両隣の
ベッドでセックスが行われているのを平常心で超越できるヨーロッパ人兵士がいったい何
人いるだろうか。白人にだけそれを禁止することは軍上層部にできなかった。それどころ
か、兵士にとって性に関する欲求や病気などの諸問題、家庭的な安定した暮らしの享受、
過剰飲酒の抑制といった優れた効果が兵舎内の家庭生活によって実現できることを目の当
たりにするに及んで、軍上層部は密かにそれをバックアップする態勢に入って行った。
[ 続く ]