「植民地文明(5)」(2020年12月28日)

問題のポイントは、プリブミは自分の文化における正式な妻と兵舎で家庭生活を営んでい
るのに対し、白人兵士はニャイと兵舎で家庭生活を営んでいたという違いにある。正妻を
持ったとしても、下士官兵士に個人用官舎が与えられるわけもないし、そんなことをすれ
ば軍事経費が莫大なものに膨れ上がるのは火を見るよりも明らかだ。

だが倫理を旗印に掲げる市民たちには、それが許すことのできない暴挙に映った。白人コ
ロニー社会におけるニャイ問題は比較的スムースに廃絶に向かって推移して行ったが、兵
舎のニャイは政庁と軍上層部が躍起になってそれを擁護する論陣を張った。

1911年を過ぎるあたりから反対論が世の中に盛り上がり、両者の論戦が延々と繰り広
げられ、結局、市民社会でニャイ制度廃絶に強烈なボディブローを与えたイデンブルフ第
65代総督が兵舎のニャイにも引導を渡すことになった。かれは兵舎のニャイ制度も徐々
に廃止していく方針であることを表明して倫理擁護派を喜ばせた。軍部は総督を裏切者と
見なして非難したものの、植民地最高権力者にあらがうすべもなく、総督方針に従う以外
に取るべき道はなかった。

本国ですら植民地省が議会で兵舎のニャイ制度をたたかれていたのだから、KNIL上層
部が助力を請える相手はもうどこにもいなかったのである。1913年に兵舎で暮らすニ
ャイは激減し、1918年には東インド在住のヨーロッパ人に兵役義務が与えられて一般
市民が兵舎内に入って来るようになり、市民社会から遠かった兵舎が市民の前にさらけ出
されるようになった。こうして1919年に兵舎のニャイはKNILから一掃された。


1931年にパリで開催された万国植民地博覧会Exposition coloniale internationale
は植民地主義時代の最盛期を印するイベントだった。蘭領東インド館はジャワ・バリ・ス
マトラの建築様式を展示して来場客の人気を集め、フランスが展示したインドシナのアン
コールワットと称賛を二分した。中でも、蘭領東インド館入り口にはバリ島ギアニャル県
スコワティSukawatiのチャムンゴンCamenggon寺院入り口を模した大理石の石組みが作ら
れ、高さ50メートルの石組みにはバリ彫刻が全面に施されたそうだ。その制作に40日
がかけられた。更に40人のバリ人踊り子とガムラン演奏グループ一式もパリに送り込ま
れて、博覧会来場客をエキゾチシズムの陶酔に誘った。

東インド植民地政庁のその努力は実を結び、バリ島への旅行者がどんどん増加して行った
という話だ。もちろんバリ島ツーリズムプロモーションはもっと前から行われていて、こ
の博覧会が最初というわけでは決してない。

オランダにとっては元来、東インド植民地はジャワに代表されるものだった。だから植民
地紹介のメインがジャワに終始したのも当然だったのである。政治経済面でのジャワのウ
エイトは最大だったから、植民地政庁がジャワの一押しに傾いたのも無理はない。ジャワ
の文化も純粋素朴でプリミティブであると見られていた。

ところが、観光目的地としてもっと恰好な場所があったことにかれらは気付いた。東イン
ドに人と金の移住を誘うのはジャワを示すに如くはないのだが、プリミティブ観光にはる
かにうってつけの土地がジャワ島の隣にあったのである。


1920年代終わりごろにその転換が進んだ。ジャワ島の印象にプリミティブからモダン
への移行が起こり、古来からの純粋さが薄れ始めているという見解が厚みを増した。ジャ
ワはプリミティブ観光対象地から外される崖っぷちに立たされたのである。

ヴァルター・シュピースWalter Spies、ルドルフ・ボネッRudolf Bonnet、ミゲル・コヴ
ァルビアスMiguel Covarrubiasら芸術家やジェーン・ベロJane Beloあるいはマーガレッ
ト・ミードMargaret Meadたち人類学者がバリをターゲットにして作品を発表し、プリミ
ティブが温存されている土地の存在が世界にアピールされた。

こうしてバリ観光が最盛期を迎え、30年代の観光プロモキャッチコピーには神々の島、
地上の楽園、バリ島を見る前に死ぬな、などの言葉があふれ、米国サイレント映画の神様
チャーリー・チャップリンまでもがバリ島を訪れた。バリ島観光振興ポスターには、乳房
を隠さないバリ島女性の風習を採り上げて、それをシルエットに描き出した図案すら登場
した。肩丸出しのジャワ娘よりもその方がはるかに強いインパクトをもたらしただろうこ
とは想像に余りある。[ 続く ]