「植民地文明(6)」(2020年12月29日)

それはともかく、この博覧会では、植民地の文化が宗主国の権威を高揚させる素材に使わ
れたのである。そのような優れた植民地を持っている宗主国の優秀さに焦点が当てられた
のであって、優れた文化を持っている植民地にされた国や民族が優れているのだという視
点にはならなかった。なにしろ植民地とはこれほど未開な土地と人間であるという点が基
本コンセプトに置かれて博覧会のコンセプトが組み立てられたのだから、ユニークでエキ
ゾチックな文化の例を目にしたところで、来場客には限定的な賞賛の感情しか湧いてこな
いだろう。

数十年前にわたしがバリやロンボッを観光に訪れたとき、プリミティブPrimitiveをバリ
やロンボッの形容詞に使った土産物が目に付いて、奇妙な感情に襲われたことがあった。
Tシャツにまるで南洋の偶像のような絵が描かれ、プリミティブロンボッという文字が踊
っているデザインを考えたのはいったい誰だったのか?

百年以上昔にヨーロッパで行われたプリミティブ植民地への観光旅行キャンペーンがそこ
まで尾を引いているのだろうか?しかし21世紀にやってくる観光客が未開人を見に来て
いると本気で思っている地元民はいないだろう。この種の反応が植民地根性と呼ばれるも
のなのかもしれないが、そうであるなら、植え付けられた植民地根性の根深さに戦慄を禁
じえない気持ちになるのはわたしだけではあるまい。


オランダが東インド植民地を世界に示して見せることはもっと前から既に行われていた。
1883年にはアムステルダムで国際植民地貿易博覧会Internationale Koloniale en 
Uitvoerhandel Tentoonstellingが開かれ、東インド各地の種族文化が家屋の様式や人間
の姿を添えて紹介された。どうやらそれが、インドネシアの地方文化が世界に発信された
事始めらしい。

ちょうど植民地獲得競争が地球を一巡して角の突合せは下降傾向に入り、各植民地宗主国
が自ら獲ち得た成果を示してその偉大さを誇示しようという時期に当たっていたのだろう。

そんな見せびらかしの風潮はロンドンのクリスタルパレスで1851年5月1日から10
月1日まで開かれた大博覧会The Great Exhibition of the Works of Industry of All 
Nationsをスタートのホイッスルと見ることができよう。

1889年にパリで開催された万国博覧会Exposition Universelleにオランダはジャワ村
village Javanaisを売りの目玉に引っ提げて参加し、6カ月間の開催期間に87.5万人
の来場客を得た。ヴィルヘルミナ女王ご観覧のときに東インド館は訪問対象から外された
らしいのだが、そんな政治的なことがらとは無関係に、東インド植民地は博覧会入場者に
強烈な印象をもたらしたのである。

ジャワ村でショータイムに演じられる音楽と踊りはたいそうな人気を博し、12歳から1
6歳のジャワ娘が民族衣装を着て舞う姿に観衆は酔いしれた。マスメディアはダミナ、ワ
キエム、サリエム、スキアたち踊り子を名入りで紹介し、多くの観衆がこの少女たちに熱
を上げたと報じた。詩人ボードレールはワキエムに捧げるLa Belle Wakiemと題する詩を
発表し、その作品は1893年8月9日付けのバタヴィアの新聞ヤファボドJava Bodeに
掲載されて東インド中に紹介された。

だが、ジャワ娘たちの人気は、乳房から下を布で覆っただけの、肩を丸出しにした姿がも
たらしたセンセーションの故だったと説く者もいた。そのような南洋の植民地風俗が絵葉
書や絵画などでヨーロッパに伝わってはいたものの、画像が与える印象は生身の人間が発
散するオーラにいとも容易に打ち負かされ、ひとびとは新鮮な驚きをそこに見出すことに
なったためだというのがこの論者の意見である。

そのときパリに派遣されたジャワ人舞踊者は男性一人女性5人で、マンクヌゴロ王の宮廷
に所属する60人の舞踊者から選ばれた人々だった。女性舞踊者たちは代々、王宮から外
へ出ることが許されず、常に王宮内にいて宮廷のために踊ることが義務付けられていた。

かの女たちが王宮の外へ出ることを許されるのはただひとつ、王が許可した婚姻を行う時
に限られていた。植民地政庁は例外を作るために王への根回しを余儀なくされたようだ。

四人の王宮の少女舞踊者はその愛くるしさでパリ住民の人気を集め、パリ郊外に住む貴婦
人が四人のために盛大なパーティを開催した。大勢の貴顕紳士淑女が集まったパーティに
四人の少女は大喜びしていたそうだ。[ 続く ]