「植民地文明(終)」(2020年12月30日)

ジャワの王宮舞踊はガムランの伴奏で行われる。このガムランに魅入られたのが当時27
歳のクロード・ドビュッシーClaude Debussyだった。その印象をかれはこう語った。「普
通のヨーロッパ人の耳でジャワのガムラン音楽を聞いたなら、われわれの音楽は単なる巡
回サーカスの楽隊の音にしか聞こえないだろう。おまけにジャワの演奏家はヨーロッパの
それのように、優れた奏者になって名を挙げようというエゴを持っていない。ジャワガム
ランにおいては、個人の芸術的資質や技術能力は純粋に二次的要素になっていて、トータ
ルとしての音楽の真髄がかれらにとっての第一義的なものなのである。演奏者ではないの
だ。」

ガムランによって大きなインスピレーションを受けたドビュッシーは、1903年の作品
d'Estampe以来、たくさんの作品をものした。かれは青銅音板の残響にジャワガムランの
本質を感じ取ったようで、かれのピアノ曲には開放弦での残響の印象が特に顕著に表れて
いる。


パリのジャワ村では夕方6時ごろになると大きなテーブルが置かれ、その上に東インドの
さまざまな料理を並べたレイスターフェルrijsttafelが来場客に6フランでふるまわれた。
料理の中で人気のあったのは淡水魚グラメの料理と鹿肉のデンデンだったそうだ。

世界の被植民地から人間が集められたこの博覧会は一種の人種展示会にもなっており、人
類学研究者たちもこのチャンスをとらえて利用した。デニカーとラロイは東インド館に来
ているジャワ島出身者をジャワ族・スンダ族・ムラユ族に区分して、身長・肌の色・頭髪
・頭形・目鼻耳唇の形状などをひとりひとり調査して記録した。

遠路はるばるとパリまでやってきた東インドのプリブミたちは最初故郷で、植民地行政が
博覧会参加者を募った時に二の足を踏んだ。一生に一度あるかないかというこんな機会に
怖気づくプリブミの様子に驚いた政庁は、試しにだれかをヨーロッパに送って向こうの様
子を見て来させるのがよいと判断し、ひとりを選択してアムステルダムに送った。送られ
た者はアムステルダムで小遣いをもらい、案内人も付けられて優雅で楽しい暮らしを体験
して戻って来た。かれの体験談が強い説得力を発揮したのは言うまでもない。


それら植民地の見せびらかしという風潮が植民地主義・帝国主義に反対するひとびとの怒
りに油を注いだ面があったことも忘れてならない。1920年代末にはアジアの多くの植
民地に独立を希求する民族主義者の声が強まり、それら植民地民族の宗主国への抗議をバ
ックアップする宗主国知識人の間にも積極的な動きが起こった。

1927年に発足した反帝国主義連盟は1931年のパリ万国植民地博覧会の向こうを張
って、その開会式の日にモンパルナスの丘で反植民地博覧会を開催したのである。博覧会
に展示されるそんなきれいごとだけが植民地の実態なのでなく、植民地政府の地元民に対
する愚弄と虚偽、搾取に彩られた地元民の貧困生活、看板だけの文明人育成とその本質を
なしている愚民政策のありさまをできるだけ多くのひとびとに伝えようとして、かれらは
そのアンチテーゼを行った。何人ものシュールレアリストが署名入りで、「植民地博覧会
に行くな」というアピールを社会に表明した。

パリ万国植民地博覧会に反対する動きはオランダにも、東インドにも起こった。オランダ
に留学している東インド大学生たちの組織が動き、東インドでも地元民族主義者が植民地
主義反対の声を高めた。だが、植民地主義に反対する先覚者の声はもっともっと古い時期
からヨーロッパの空にこだましていた。1883年のアムステルダム国際植民地貿易博覧
会ではロールダ・ファン・エイシンハSEW Roorda van Eysingaが舌鋒鋭く反対の弁舌を既
に振るっていたのである。[ 完 ]