「酔いどれジャワ人(2)」(2020年12月29日)
ソロの著名な文学者パッモスサストロKi Padmasusastraは20世紀初めに作法Tata Cara
なる書物の中で、ジャワにおける飲酒の意味をエカパッマサリeka padma sariに始まって
ダサブタマティdasa buta matiに終わる十段階に分析した。一杯だけ飲むひとは、ハチが
花々の蜜を吸うようなものである。十杯飲むひとは死人に似ている。飲む量の低レベルか
ら高レベルまでの各段階について、かれは飲む人間のプロフィールとリスクを説いた。

パッモスサストロのその論はプリヤイ層の祝宴におけるゴンべのありさまを描写したもの
である。集まった賓客がガムランの奏でを聞きながらおしゃべりしているとき、飲み物が
供されなければならない。ゴンべは参会者への表敬であると同時に、参会者間の親密を高
めるものであり、そして祝宴開催者の繁栄を示すものなのである。パッモスサストロはゴ
ンべを、酔っぱらって恥ずべきことがらを招かないかぎりにおいて持つことの認められる
快楽への権利であると位置付けた。


ラデン・マス・リヤ・ジャヤディニンラ一世Raden Mas Rija Djajadiningrat Iの作品で
あるSuluk Mas Ngantenにもゴンべが登場する。その書はジャワ民族が開明時代に入った
時代の社会文化的記録なのだ。そこには、結婚式の祝宴に客としてやってきたプリヤイ層
の姿が当時の世相として描かれている。

客人は飲み物を茶、ブランディbranduwin(オランダ語Brandewijn)、ワインの中から選
択する。来客を愉しませるために招待主は邸宅のプンドポpendapaでタユブtayubの歌舞を
上演させる。ゴンべのありさまと、プンドポに上がって踊る客たちの姿がそこに描き出さ
れている。


ゴンべはプリヤイ層のステータスと祝宴のクオリティを高めるものだった。こうしてジャ
ワではあらゆる祝宴にゴンべが取り入れられるようになっていった。1924年にヤサウ
ィダッダR Tg Jasawidagdaが発表した古典小説Kirti Njunjung Drajatにも、20世紀初
期にクラテンで開かれた結婚式の一シーンとしてゴンべが描かれている。その結婚式には
オランダ人植民地高官とプリブミ高官が登場するのだ。

かれら高官たちをもてなすためにジンjenewerが振舞われる。かれらには喜んで新郎新婦
と招待主に祝福を与えてもらわなければならない。敬意を表するのに手落ちがあって、か
れらを不快にしてはたいへんなことになる。だから、かれらにだけジンが振舞われて、他
の一般参会者には出されない。ジンが社会階層をシンボライズするものとして使われてい
るのである。

ゴンべは社会的権威を持つオランダ人植民地支配者とプリブミ封建支配者のステータスを
確認するものとして、エリート階層になくてならないものになった。プリブミ封建支配層
がみんな非ムスリムだったなどと考える必要はないのである。


いくら西洋人が飲酒をライフスタイルにしているとはいえ、酒に呑まれる人間に事欠かな
い実態は歴史が示している通りだ。ヌサンタラにやってきたオランダ人たちも、VOC時
代以来、多数の者が酔いどれになって悲惨な生涯を終えている。KNIL兵舎の中に酔い
どれが目立ったが、市民社会の中にも少なからずいたようだ。

植民地政庁は身内である西洋人社会に過度の飲酒を戒める宿題を常に負わされていたとい
うのに、倫理政策が始まるとその対象をプリブミにまで広げなければならなくなった。ジ
ャワ人のゴンべが目に余るものになっていたにちがいあるまい。

こうして1920年に飲酒に関する啓蒙の書物が世に出された。厚さ203ページにわた
るHet Alcoholkwaad en Zijn Bestrijdingと題する書籍で、植民地政庁高官であるオラン
ダ人カッツJ Katsが著述した。ムラユ語のタイトルはBahaja Minoeman Keras serta Daja 
Upaja Mendjaoehinja: Teroetama bagi Hindia Belandaとなっている。

この書は人間にとっての飲酒の益と害を知らせるために書かれたものであり、行政高官・
行政職員・青年層・すべての住民がこの内容を知っているべきである、とカッツはその前
書きの中で述べている。要は、いくつかの効用があるとはいえ、酒は害毒の方が多いのだ
ということをカッツは主張したのである。[ 続く ]