「バタヴィアに夜の革命(後)」(2021年01月07日)

LPGがプルタミナの専売商品にされたことで、PGNのできることが著しく狭められた
のは疑いないところだろう。オルバ期にスハルト大統領は石炭ガスの再活性化を企図した
ものの、社会の受け入れるところにならなかった。1974年には都市ガス製造源として
の石炭石油から天然ガスへの移行が進められ、石炭の時代は過ぎ去って行った。


一方、照明エネルギー源としてのガスを駆逐してしまった電力のバタヴィアでの出現は1
897年のことだった。実は、東インドで初めて電力事業を開始した企業も東インドガス
会社NIGMだったのである。

しかし東インドにおける電力の発電と利用は、オランダ系の砂糖工場と茶工場がトップを
切ったという話になっている。これはインドネシアの鉄道史にも同じ話があり、公共鉄道
輸送会社が鉄道事業を開始する前に、サトウキビ農園で収穫したサトウキビを製糖工場ま
で運ぶための軽便鉄道がジャワの地を走った蒸気機関車の先駆けだったと言われている。
だがそれらは私企業が自分の事業のための資産として持ったものだったのであり、公共事
業として運用されたものではなかった。

バタヴィアに作られた最初の発電所はガンビル地区のチリウン川岸に設けられた火力発電
所だった。能力3,200+3,000+1,350kWのその発電所がバタヴィアと周辺
地区の電力需要を賄った。バタヴィアに続いてスラバヤでも電力供給が開始された。


バタヴィアで史上初めて行われたアーク灯の発光は、チキニCikiniのラデン・サレRaden 
Saleh私邸の庭だった。それまでのガス灯よりはるかに明るい光が広大なラデン・サレ邸
の庭の奥まで光を投げかけているのを見て、集まって来たプリブミたちの間からどよめき
が起こった。それが家庭電化推進に向けてのデモンストレーションだったことは疑いもな
いが、バタヴィア住民の間に大きな衝撃が走ったことも間違いあるまい。

ラデン・サレ邸でのデモンストレーションが終わった後、電力会社は次にタンジュンプリ
オッ港を電化した。港内一帯は煌々たる光を浴び、港湾活動が夜中でも行えるようになり、
港は不夜城の姿を示し、夜中であるにもかかわらず明るい港の様子が遠く離れた場所から
も眺められた。

オランダ人ばかりか、たくさんのプリブミも、不夜城の光を一度は全身に浴びたいとばか
り、遠く離れたバタヴィアの街中からタンジュンプリオッ港に、馬車に乗って集まって来
た。その当時、べオス⇔プリオッ港間の鉄道は夜間運行していなかったので、ひとびとは
片道2.5フルデンもするカハルkaharを雇って港に押しかけた。まるで港に夜市ができ
たようなものだ。

夜市と言えば、ガンビル広場で行われるパサルガンビルPasar Gambirの煌々と照らされる
照明の下で、夜風を愛でながらの夜の慰安はバタヴィア住民を大いに愉しませたのではな
いだろうか。


NIGMの中の電力部門が行っていた電力事業は最終的に1909年になって分社化され
て、総合東インド電力会社Algemeen Nederlands Indische Electriciteits Maatschappij
(ANIEM)がNIGMの子会社として設立された。ANIEMは1921年に南カリ
マンタンのバンジャルマシンを電化し、1937年には中部東部ジャワ一円の電化を推進
した。

一方1927年に政庁はs'Lands Waterkracht Bedriven (LWB)を設立して水力発電を担当
させた。LWBが建設した水力発電所は西ジャワのプレガンPlengan、ラマジャンLamajan、
ブンコッダゴBengkok Dago、ウブルッUbrug、クラチャッKracak、マディウンのギリガン
Giringan、北スラウェシのトンセアTonsea、ブンクルに試験発電所と多数にのぼり、バタ
ヴィアの火力発電所もその管理下に置かれた。ダゴのチカプンドゥンCikapundung発電所
がインドネシア最古の水力発電所である。

ANIEMは諸所の地方行政と関係を持ち、東ジャワ、ソロ、バニュマス、レンバン、ス
マトラ、バリ・ロンボッなどの電力局と協力して主要都市に給電を行った。しかし日本軍
政期には各地に設けられた給電システムがジャワ軍政監部の管下に置かれ、ジャワ電気事
業公社Djawa Denki Djigjo Kosjaが現場を統括した。事業公社は後に事業社に変更されて
終戦までジャワ島の電力管理を行った。

日本敗戦後、ANIEMは1947年にインドネシアに戻って来て、NICA(蘭領東イ
ンド文民政府)の支配下に落ちた都市の電力供給を行った。インドネシア共和国主権承認
のあともANIEMはインドネシアでの電力供給事業を継続し、1958年のオランダ資
産接収によってインドネシアから姿を消すことになった。[ 完 ]