「バタヴィアの性」(2021年01月13日)

ライター: コンパス紙編集員、ムリヤワン・カリム
ソース: 2009年6月8日付けコンパス紙 "Para Nyai sampai PSK Impor"

ジャカルタは公定赤線地区を持たない世界のメトロポリタンのひとつである。10年ほど
前の1999年に政府は、公定と言い得る唯一のクラマットゥンガッ売春隔離地区を閉鎖
したのだ。1999年の閉鎖時まで、クラマットウンガッはジャカルタ最大の売春隔離地
区だった。面積およそ11ヘクタールの土地に1,600人を超える売春婦が暮らしてい
た。
都庁社会局が運営した売春隔離地区が過去のものになったとはいえ、売春が消滅したわけ
では決してない。今でも、プラプラPela-pela、ラワマランRawa Malang、カリジョドKali 
Jodohなどさまざまな闇売春地区で夜の蝶を容易に見出すことができる。一方、高級売春
婦はほとんどが西ジャカルタ市コタ地区にあるナイトスポットで客を待ち受けている。高
級売春婦はインドネシア人だけでなく、東欧・中欧・中国大陸などからも輸入されている
のだ。
ジャカルタの売春の歴史はジャカルタの町の歴史とほぼ同期している。オランダ人が支配
を開始したころにセックスビジネスは既に存在していた。バタヴィア初期の売春宿はパサ
ルイカンPasar Ikan地区にあるバタヴィア城Kastil Bataviaの城壁の外にできたようだ。
オランダ人歴史家レオナルド・ブルッセ氏の著書Strang Company, ...(インドネシア語
版Persekutuan Aneh: Pemukim China, Wanita Peanakan, dan Belanda di Batavia VOC 
1988年)には、バタヴィア城の兵士がそれらの家にやってきて、そこに住んでいる女
性と愉しんだと記されている。VOC兵士は兵舎に女を連れ込むことが禁止されていたの
で、そんな形になるのが当然と言えば当然だった。
現代と同じように、売春婦になったバタヴィア住民女性の中に自らの意志でそうなったの
でない者もいた。ある資料によれば、1625年にマリアという名のプリブミ女性が夫の
マヌエルを訴え出た事件があった。夫は妻と女奴隷たちに毎日、オランダ人の男たちに身
体を売って罪深い金稼ぎを行うよう強制していたとマリアは官憲に訴え出たのである。
旧バタヴィアの中で、売春は盛んに行われた。オランダ人男性が妻にできるヨーロッパ人
女性がまったく不足していたことがその原因のひとつだった。それはVOCの文民社員や
兵士にとっても、またVOCとの契約期間満了後バタヴィアに残って独立事業主になった
ブルハーburgerと呼ばれるひとびとにとっても同様だった。

< 少女を送れ >
誕生させたばかりの新都市の女性不足に対処するため、ヤン・ピーテルスゾーン・クーン
VOC総督はオランダ本国の会社取締役会に対し、10〜12歳の少女数百人をバタヴィ
アに送り込むよう要請した。それらの少女たちはオランダ各地の孤児院から選び出し、会
社の費用で一般家庭に預け、また学校教育を受けさせた上で、婚期に達したらバタヴィア
で結婚させるというのがその計画だった。
バタヴィアのために会社が女性を用意することは、東インドでの会社活動を成功させため
の前提条件である、とクーンは考えた。「女性が用意されるなら、東インドの通商市場は
あなたがたのものになる」。クーンはヒーレン17に宛てた手紙の中にそう書いている。
残念ながらヨーロッパから花嫁をバタヴィアに送る企画は成功しなかった。経費がかかり
すぎたのがその原因だろう。
クーンが直面したもうひとつの倫理問題は、公式に婚姻しない女との同棲習慣で、これも
バタヴィアで盛んに行われた。総督直下の幹部たち上級職員のほとんどはニャイと呼ばれ
る妾を持った。最初、かれらはポルトガル人とアジア人のメスティ−ソ女性をニャイにす
ることを好んだ。17世紀半ばにVOCがマラヤ半島にある港湾都市、ポルトガルの植民
地マラッカを奪取したあと、そこからバタヴィアに女性たちが連れて来られた。
ポリガミーが起こるのも必然だったようだ。ヨーロッパ人男性の多くは二人、三人と妾を
持った。バタヴィアに移住して来る華人も女を連れずにやって来たから、非婚姻女性との
同棲生活はバタヴィアでますます一般化していった。
非の打ちどころを全く持たないと言われたエファ・メントEva Mentを妻にしてバタヴィア
に連れて来たクーンは、妾の習慣の撲滅を宣言した。「妾制度は出産を減少させ、堕胎や
赤児殺しを起こさせ、嫉妬に狂った妾がトアンを毒殺する。」とクーンは語っている。し
かしながら、売春・妾制度・不倫に強く反対したクーンも、その後任者たちも、それらの
敵を抑え込むことに成功しなかった。
VOC崩壊後のオランダ植民地時代に、ニャイ物語はもてはやされた。ブタウィでもっと
も名の知れたニャイはニャイ・ダシマだ。19世紀の歴史小説主人公になったかの女は、
バン・サミウンの最初の妻に命じられたプンチャッシラッの使い手バン・プアセの手にか
かった死んだとニャイ・ダシマ物語の一バージョンは物語っている。
ニャイ・ダシマは、かの女を公式の妻でなくニャイにしたイギリス人男性トアン・エドワ
ードを捨ててクウィタンのサドの御者バン・サミウンの妻になったのである。

売春も目覚ましい発展を示した。ブタウィ文化専門家アルウィ・シャハブ氏によれば、1
9世紀にジャカルタコタ鉄道駅に近いガンマンガGg Manggaには大班taipan層に人気のあ
る売春宿があったとのことだ。かれらビッグボスたちはガンマンガに通い詰めた。なぜな
らそこにはマカオから特別に呼び寄せた上等の阿妹amoyが勢ぞろいしていたからだ。
1960〜70年代、ジャカルタのあちこちのコーナーに売春エリアが誕生した。南ジャ
カルタ市グントゥルGuntur地区のハリムンHalimun通り、中央ジャカルタ市スネン地区の
プラネッスネンPlanet Senen、東ジャカルタ市ではジャティヌガラ鉄道駅裏のクボンセレ
Kebon Sereh。北ジャカルタ市プンジャリガンPenjaringan地区のグドンパンジャンGedong 
Panjangは女審(cim→encim)ギャルが買えることで名を上げた。
クラマットゥンガッが閉鎖されて十年が経過し、売春隔離地区の閉鎖は何ひとつ変化をも
たらさなかったことを実証した。鉄の腕でバタヴィアを作り上げたクーン総督でさえ、売
春をバタヴィアから消滅させることはできなかったのだ。ましてや現代バタヴィアの上層
部は政治利益と政治プレッシャーまみれになっているのだから。