「バタヴィア娼婦殺害事件(終)」(2021年01月22日)

ブリンクマンの裁判が行われた。かれが娼婦殺しの張本人であることは、十分すぎるほど
の証拠があった。だがかれはいまだに一縷の希望を抱いていた。わたしは純血オランダ人
だ。植民地行政が同胞オランダ人にむごい仕打ちをするはずがない。フルヴェフがうまく
根回しをして、無罪放免にしてくれるだろう。たとえ多少の手違いがあったとしても、軽
い刑で終わるはずだ。

ところが、まるで予想もしなかった判決が下されるにおよんで、かれは狂乱した。検事が
求刑していた死刑を判事が軽減もせずに受け入れたのである。かれは死刑を宣告されたの
だ。植民地支配者であるオランダ人が、自分が手を下してもいない混血娼婦の死の責任を
負わされて自分の生命で償いをせよと言われたのである。かれは天と地が逆転したと思っ
たにちがいあるまい。

ブリンクマンは世の中の筋道が狂ってしまったことを憤り、コンコルディアの仲間や知人
たちに支援を求めた。この判決は間違っている。オランダ人の生命と有象無象の生命を一
対一で計るとはなにごとか。早く正しい道に戻さなければ、オランダの東インド支配はお
かしなことになってしまいかねない。社会的有力者たちが政庁に働きかければ、この判決
は見直しがなされるだろう。

ところがコンコルディアの仲間や知人たちはブリンクマンを見放したのだ。ほどなくブリ
ンクマンは監獄の死刑囚独房で首を吊った。シルンの成功報酬をもらう機会は永遠に失わ
れた。


この事件がバタヴィア社会の集合記憶になったのは、事件発生から捜査の進展そして裁判
と、それらの報道記事を掲載した新聞が飛ぶように売れたこと、更に事件が終結してから
数年後に出された書物も大いに売れた事実などが証明している。社会はこの事件に関する
情報をいつまでもむさぼり読んだようだ。

バタヴィアの新聞記者タン・ブンキムTan Boem Kimは1915年にフィンチェ・ドゥ・フ
ェニクス事件に関する小説Fientje de Feniks atawa djadi korban dari tjemboeroeanを
出し、大ヒットになった。この小説は何度も再版されている。

同じ年にチョン・クンビー印刷所Drekkerij Tjiong Koen BieはNona Fientje de Feniks
と題する146ページの書籍を出版した。タン・ブンキムは翌1916年に詩を作り、
Sair Nona Fientje de Feniks dan Sakalian Ia Poenja Korban jang Bener Terjadi di 
Betawi antara taon 1912-1915と題する87ページの書籍にして出版した。

それらの出版物の中で、後代の著作家たちがもっとも参考にしたのがタン・ブンキムの著
作だったようだ。プラムディア・アナンタ・トゥルも1988年の作品ガラスの家Rumah 
Kacaの中でフィンチェ殺害事件を取り上げた。ただしフィンチェの名前はリンチェ・ドゥ
・ロオに変えられ、ジャック・パグマナンという旦那を持つ娼婦として描かれている。リ
ンチェの殺害に関する話は細かに触れられていないが、ストーリー展開の中で重要な位置
付けを与えられている。

華人ムラユ文学ばかりか、東インドの一悲劇という添え書きをつけた75ページのフィン
チェ・ドゥ・フェニクス殺害De moord op Fientje de Feniks: een Indische Tragedieと
題する書籍をオランダ人ピーター・ファン・ゾンネフェルツPeter van Zonneveldが19
92年に出している。1998年にはイギリス人メディア従事者リチャード・マンRichard 
Mannがバタヴィアの殺人Murder in Bataviaを世に送った。この作品は登場人物が別の名前
になっているが、筋立てはフィンチェ事件が使われている。[ 完 ]