「東インドの犯罪(1)」(2021年01月25日)

1904年4月3日、バンドンで殺人事件が起こった。原住民教員養成学校Kweekschool 
voor Inlandse Onderwijzersの教官トアン・ダルマが自宅で就寝中に殺害されたのだ。犯
人は夜半に寝室に忍び込み、トアン・ダルマの寝首を掻き切った。ところが、その状況は
誰が見ても不審を抱かせるものだったのである。隣に寝ていたかれの妻には危害がなにも
加えられていなかったのだから。殺害犯人はミンチェと関りを持っていたのではないか、
という疑惑が生じて当然だったのである。かれの妻はミンチェ・クヌストMientje Knust
16歳だった。

最初、バリ人のトアン・ダルマはミンチェの母親と結婚した。ミンチェはその母とオラン
ダ人の間に生まれたIndo(欧亜混血児)であり、トアン・ダルマにとっては連れ子になっ
た。そしてミンチェの母が死去すると、トアン・ダルマはミンチェを妻にした。そのとき、
ミンチェの母は奇妙な死を遂げたという噂にからめて、トアン・ダルマが殺したという言
葉もささやかれていた。

ミンチェはトアン・ダルマの言いなりになって、亡くなった母の後釜にすわったのだが、
かの女の心中がどうであったのかは判然としない。かの女の行動がそれを物語っていると
見ることはもちろん可能だ。

ニョニャ・ダルマになった16歳の少女は、男遊びを始める。マッチョな24歳のアルメ
ニア人青年ヨハネスがミンチェを抱きとめた。ヨハネスという青年を手の中につかんだと
確信したミンチェは話を持ち出した。夫を殺してくれたら1千フルデンをあげる、と。

1千フルデンを用意したミンチェはそれをヨハネスに渡して、実行を迫った。だがヨハネ
スに自分の手を汚す気はなかったようだ。ヨハネスはアンボン人バロディに殺しを依頼し
た。こうして4月2日の夜が来た、というわけだ。


バロディが殺しを実行したときにヨハネスとミンチェがどうしていたのかを述べている資
料は見つからない。ミンチェがバロディの実行に手を貸して、一緒になってトアン・ダル
マを殺したという推測もあるが、そうなるとミンチェとバロディがヨハネスの仲介で互い
を見知っていなければならなくなる。それがヨハネスを見込んで依頼したミンチェを失望
させるのは明らかだ。

その機会を持たなかったとすれば、ヨハネスはバロディの殺しの現場に同行せざるを得な
くなるだろう。ミンチェがバロディに手を貸したのなら、ヨハネスが離れた場所で見守っ
ているだけではすまないはずだから、ヨハネスも手を貸す態度を示して当たり前だったの
ではあるまいか。ヨハネスがこのアブナイ人妻との手切れをすでに決意していたのなら、
また話は違ってくるのだろうが。

警察はミンチェをマークし、かの女の人間関係を洗い出して三人を一網打尽にした。三人
は裁判で有罪を宣告された。この事件もバンドンはもとより、バタヴィア住民の間でセン
セーションを巻き起こしたのだが、フィンチェ事件によって史的ゴシップバリューが下が
ってしまったようだ。


フィンチェ殺害事件の興奮まだ冷めやらぬ1913年9月、今度は大金持ち逃げ事件が明
るみに出て、バタヴィアを騒がせた。バタヴィアでトップクラスの銀行の出納責任者が巨
額の金と金塊を持って国外に逃亡したのである。銀行の被害額は記事によって違っていた
が、金塊を別にして12万から19万フルデンの間だったそうだ。

犯人はオランダ人ソンネフェルツHM Sonneveldで、かれは妻のカリタス・レゲンスバーグ
Caritas Regensburgとふたり、大金を抱えて南洋郵船組の萬里丸に乗り、香港へ逃げた。

南洋郵船組は1912年から三隻の船を投入して日本と蘭領東インド間を周航する事業を
開始している。船は神戸⇒門司⇒香港⇒バタヴィア⇒スマラン⇒スラバヤ⇒マカッサル⇒
バリッパパン⇒香港⇒門司⇒神戸という航路を回った。逃亡者ふたりはバタヴィアのタン
ジュンプリオッ港からのんびりとジャワ・セレベス・ボルネオを回って香港への旅を愉し
んだにちがいあるまい。[ 続く ]