「東インドの犯罪(2)」(2021年01月26日)

その時期、ジャワのあちこちにソンネフェルツという姓の高官がごろごろしていた。クデ
ィリのカランレジョ地区レシデン、法務局の高官、バイテンゾルフの警視などのように要
職に就いている人名のひとつだったのだから、その名を聞いて名門名家のひとつと思う人
間は世の中にたくさんいたことだろう。

ペテン師のHMソンネフェルツが要職に就いているひとびととどんな関係にあったのかはよ
く分からない。ペテン師の家系を調べてどの著名人と血縁関係にあるということを調べる
新聞記者があの当時、果たして存在しただろうか。書かれた著名人がそんなことを書く記
者を放置するとも思えない。


ペテン師のこのソンネフェルツは優秀な軍人だったようで、大柄で背が高く、細身ながら
筋骨たくましい体躯をしていた。かれはKNILの歩兵曹長のとき、勲章をもらっている。
1903〜04年のスマトラにおける軍事行動で多大なる軍功をあげたとして第四等騎士
勲章がかれに授与されたことが1904年3月7日付け政府布告に記されている。

かれはまだ軍務下にあったというのに、退役もせずに蘭領東インド割引会社Nederlandsch 
Indische Escompto Maatschappijの輸出入関税部門の臨時監督者の仕事を引き受けて、1
904年末から月給75フルデンで二足のわらじを履いていた。

最終的にかれは軍隊をやめてその会社にフルタイムで就職したのだが、どうやら二足のわ
らじがばれて軍隊から追放されたというのが真相かもしれない。インドネシア語情報では、
軍隊を追放された人間を会社が雇ったという書き方になっていて、軍隊から蹴飛ばされた
人間を雇うような会社だから金を持ち逃げされたのだという印象を与えているが、この部
分の因果関係は逆のように思われる。


蘭領東インド割引会社NIEMはパウルス・ティーデマン二世Paulus Tiedeman jr.とカ
レル・ヴィハース・ファン・ケルヘムCarel Wiggers van Kerchemが1857年にバタヴ
ィアに興した銀行で、民間銀行としては在外商館De Factorijの異名を与えられたオラン
ダ商業銀行Nederlandsche Handel-Maatschappij、蘭領東インド商業銀行Nederlandsch-
Indische Handelsbankに次ぐ第三位の地位を誇った。中央銀行としてのヤファ銀行De 
Javasche Bankは別格だ。

NHMが在外商館と呼ばれたのは、VOC崩壊後の東インドにVOCの機能を復活させる
ための受け皿としてこの会社が設立されたためだ。ファン・デン・ボシュ総督の栽培制度
実施の中でこの会社は大車輪の活躍をした。その後、時代が進むにつれて会社事業の中の
金融部門が規模を拡大して行き、結局銀行としての存在に変質してしまった。この会社の
本社は国鉄ジャカルタコタ駅の真向いの建物で、現在のマンディリ銀行博物館がそれであ
る。

独立したインドネシア共和国はNHMを国有化してインドネシア輸出入銀行Bank Ekspor 
Impor Indonesiaにした。更に1998年10月2日、インドネシア輸出入銀行・ブミダ
ヤ銀行Bank Bumi Daya、国立商業銀行Bank Dagang Negara、インドネシア開発銀行Bank 
Pembangunan Indonesiaの四国立銀行が合併して大型国立銀行を作り、こうしてマンディ
リ銀行の誕生となる。だからNHM本社建物はインドネシア輸出入銀行と名を変えてから
更にマンディリ銀行の資産となり、最終的にマンディリ銀行博物館に落ち着いたという歴
史になっている。

もうひとつのNIHはナショナル商業銀行Nationale Handelsbankに名前が変わり、国有
化の後ブミダヤ銀行と命名された。だからこちらも今はマンディリ銀行の一部になってい
る。[ 続く ]