「東インドの犯罪(終)」(2021年01月27日)

NIEMは1949年にエスコント銀行Escomptobank NV.に改名し、1960年の国有化
で国立商業銀行に変わり、そして上述の通り、1998年にマンディリ銀行の中に合併さ
れた。エスコント銀行本社ビルは国鉄ジャカルタコタ駅対面のマンディリ銀行博物館の並
びにあり、南からマンディリ銀行博物館、その北がインドネシア銀行博物館、そしてバン
通りJl Bankを越えて北側にあるビルがエスコント銀行本社ビルだった。ソンネフェルツ
はそこでフルタイムの従業員におさまったのである。

1907年、かれは当時26歳のカリタス・レゲンスバーグと結婚した。インドネシア語
記事にかれの妻はプリブミだと書かれているが、それは多分写真からの印象だけをベース
にしたもののように思われる。写真を見る限り、その印象はまったく間違っていない。だ
が名前を知れば、かの女がIndo(欧亜混血者)だったということがすぐに分かるだろう。
そうなると、インドネシア語記事は妻の姓名を知らなかった結果のように見えるのである。
フィンチェが父親の血を濃く受け継いだのに反して、カリタスは母親の血のほうを強く遺
伝子に持ったようだ。


ソンネフェルツは数年後に目覚ましい昇進をして出納責任者の座に着いた。月給は400
フルデンだった。そして1913年9月がやってきた。9月6日付けスマトラポストの記
事にかれの名前が出た。

東インドエスコント社出納責任者Aソンネフェルツの捜索願が出された。かれは最近、1
2.2万フルデンにのぼる会社の金を横領して姿を消した。かれは45歳の純血ヨーロッ
パ人であり、色浅黒く、右の頬骨に傷跡がある。


会社が社内で起こった異変を知る発端になったのは、顧客が偽造サインのなされた不渡り
小切手を会社上層部に示したことだ。上層部はただちに出納責任者を呼んで事情を聞こう
としたが、ソンネフェルツは休暇中だということが分かった。

では今から自宅へ、ということでおっとり刀でソンネフェルツの家を訪れると、家は閉ま
っており、人の住んでいる気配のない空き家になっていた。ドアには「鍵は隣人に」と簡
単に書かれた貼り紙があったが、周囲を見回しても何もないこの一軒家の隣人とはいった
いどの家のことなのか?

そんな時に借金取りがやってきた。かれらの間で事情が語り合われたとき、ソンネフェル
ツの正体が浮かび上がって来たのである。そんなペテン師を出納責任者の座に据えた者は
きっと唇を噛んだにちがいあるまい。


ソンネフェルツはオランダと犯罪者引渡し協定を結んでいない日本への逃亡を企てた。と
ころがその目的を果たす前に、イギリス領の香港で捕まってしまったのである。捕まった
とき、本人は10万フルデン、ソンネフェルツ夫人は1万フルデンを持っていたという記
事もあれば、4万フルデンを持っていたという話もある。どうやらソンネフェルツは総額
22万フルデンを会社から盗んだようだ。

バタヴィアに連行されたソンネフェルツに対する植民地警察の調べが始まる。かれは会社
の金を横領しておらず、自分は投機で一山当てたのだ、と言い張った。事実、かれは昔か
ら金に鷹揚な人間であり、かれのポケットにはいつも現金が詰まっていた。また妻が高価
な乳がん手術を受けたために金を必要としていた事情もあった。自分たちは逃亡したので
なく、妻の健康のために休暇を取っただけであり、会社の金の不始末は華人従業員のした
ことではないのだろうか、とかれは述べた。

ソンネフェルツ夫妻は起訴されて1914年3月7日に有罪が宣告され、夫は5年、妻は
3カ月の入獄刑を与えられた。妻は既に拘留期間が3カ月に達していたため、即座に釈放
された。夫は二度上訴したが、二度ともしりぞけられた。しかし1917年7月に3カ月
の減刑が行われている。その一方で政府は1916年11月に、1904年3月7日にさ
かのぼって第四等騎士勲章の叙勲を取り消した。

ソンネフェルツは1933年9月にサラティガで世を去った。カリタスはもっと前にかれ
と離婚している。カリタスのその後の消息は分からない。[ 完 ]