「バタヴィアのおぞましい水(1)」(2021年01月28日)

地下水が自力で地上に湧き上がって来る水源を自噴泉と言う。その能力を持ちながら頭を
抑えられて湧き上がる道を持たなかったものに穴をあけて井戸にしたのが自噴井だ。自噴
泉も自噴井も、水は自分で地上に湧き上がって来る。

自噴井のことを英語でartesian well、オランダ語はartesische put、インドネシア語で
はsumur artesisと言う。オランダ人はジャワ島のあちこちの都市部に自噴井を作った。
しかもたいていが構造物で周囲をかこみ、まるで御殿のような姿をした建物もあった。現
在までジャカルタ周辺に残されているものはないようだから、画像検索でバタヴィア時代
の写真を眺めるしかない。


バタヴィアで最初の自噴井はプリンス・フレデリック・ヘンドリック要塞Citadel Prins 
Frederik Hendrikの中に1843年に作られたもので、それから30年後の1870年代
にコニングスプレインの北部を含めて6カ所に新設され、1920年ごろまでに全バタヴ
ィアにはおよそ50カ所の自噴井が作られていた。深さはそれぞれが100〜395メー
トルだったそうだ。

コニングスプレイン北部のものは総督宮殿とほぼ対面する位置にあって、画像検索をして
見れば分かる通り、まるで御殿のような建物になっている。それが当時のバタヴィア名所
のひとつになったことは疑いあるまい。

コニングスプレイン東南角を少し下った、現在トゥグタニTugu Taniのある交差点緑地や
ヴァーテルロー広場Waterlooplein、サレンバやメステルコルネリスにも作られた。ヴァ
ーテルロー広場の井戸水は質が良く、華人が好んでそこまで汲みに来た。その水が茶を淹
れるのに最上だという評判が立ったそうで、茶商売の通は良質茶葉の選定のためにそこの
水を用いていたそうだ。

ジャカルタ歴史博物館前のファタヒラ公園Stadhuispleinの中央にある噴水も、元来は自
噴泉の排出口だった。これはそこに水源があったのでなく、もっと南のパンチョラングロ
ドッPancoran Glodokの水源からパイプでそこまで水を導いて設けられたものであり、バ
タヴィア市庁舎を中心にして旧バタヴィア市街の住民たちに上水を供給するのが目的だっ
た。名前からしてパンチョランと言うのだから、その地名は自噴泉がそこにあったことを
語り伝えているものと思われる。

1700年代半ばごろにVOC社員としてバタヴィアに駐在したデンマーク人ヨハネス・
ラッハJohannes Rachの描いたスケッチ画の中にスタッドハウスプレインの噴水建物が登
場しており、インドネシア共和国ジャカルタ都庁は消え失せてしまっているその噴水建物
に関する発掘調査を1972年にファタヒラ公園のその場所で行った。その結果、噴水の
基礎構造とグロドッに伸びて行くパイプが見つかったことから、ラッハのスケッチ画に似
せて作られた噴水がファタヒラ公園に復活したというわけだ。

ライニア・ドゥ・クレルクReinier de Klerk第31代総督が自分の別荘として建てた現在
のガジャマダ通りにある国立公文書館敷地内の塀の脇にも温かい水が湧いてくる井戸があ
る。1760年に建物が完成したときから既にその井戸があったのかどうかよく分からな
いが、総督は道路を隔てて目の前にあるモーレンフリートMolenvliet運河の水よりもその
井戸水を愛用されたのではないかと思われる。公共用水を避ける理由があったということ
だろう。


オランダ人の裕福な者は飲用のためにヨーロッパから鉱泉水を取り寄せたという話も見つ
かるのだが、残念ながら、それがいつごろの時代だったのか、それが書かれていない。V
OCがそれをしたのか、それとももっと時代が下った19〜20世紀ごろの話なのか?プ
リブミはその炭酸水をオランダ水air Belandaと呼んだ。今でこそソーダ水とインドネシ
ア人は呼んでいるが、共和国独立語もしばらくの間、その呼称は継続したようだ。

「ヌサンタラの飲み物(終)」(2020年10月15日)に見られる大量の炭酸水がジ
ャワに輸入されていたという話は、炭酸水が嗜好品でなく日用飲料になっていたことを意
味しているのだろうか?

現代インドネシアでも山間高原部の湧水を処理してペットボトルに詰めたミネラルウォー
ターが国民飲料になっているように、オランダ時代にもそれを行った事業者がいたという
話もある。だが、植民地時代のその事業はあまり当たらなかった印象が強い。バタヴィア
の庶民は手近に、しかも廉価に手に入る水で済ませていたようだ。オランダ人の間でその
山の水が売れたという話にもお目にかからない。[ 続く ]