「バタヴィアのおぞましい水(2)」(2021年01月29日)

さて、植民地政庁はバタヴィアのあちこちに作った自噴井を元にして住民への上水供給ネ
ットワークを作り、送水加圧ポンプ場を14カ所に設けて市民生活に便宜を与えた。18
91年の書物によれば、バタヴィアとメステルコルネリスをカバーする全水道網は全長9
0キロに及んだ。それがバタヴィア水道インフラの発端だったにちがいない。この水は無
料だった。

政庁高官の家には使い放題の蛇口が引かれたとのことだ。ところがそのネットワークで供
給される水は不味く、ぬるく、時間が経つと黄色くなった。水温は39℃だった。この水
で茶を淹れると、茶水が黒くなったそうだ。あまりの不評に政庁は方針を変え、もっと大
規模な水道網の構想を掲げた。バイテンゾルフに近いサラッSalak山麓に位置するチオマ
スCiomasの水源から水を引いてこようというのである。

バタヴィア市庁が水道会社を興してこのプロジェクトを請け負わせ、1920年に工事が
開始されて1922年11月に完成したが、先に作ってあったバタヴィア一帯の自噴井を
結び合わせたネットワークはそのときに大改造がなされた。自噴井はすべて閉ざされ、御
殿のような建物もそのときに全部取り壊されたらしい。

こうして上水道の事業化がなされ、その水道会社がバタヴィアの地中に配した上水道給水
パイプ網の大半がそのまま最近まで持ち越されて来たという話だ。ジャカルタの随所で起
こる給水パイプ網からの漏水の原因の多くはそこにあると言われていたが、現在の水道会
社が給水パイプ網の若返りをどこまで行っているのか、わたしは知らない。

ともあれ、不評ながら無料だった自噴井水が高原の美味しい水に変わって有料化されたと
き、バタヴィアの一般庶民の大半はそっぽを向いた印象が感じられる。いやその前から、
無料の不味い水に愛想をつかして、自噴井水の無料給水を利用する一般庶民はあまりいな
くなったと語っている話さえあるのだ。多くの家庭では、雨水を溜め、また川水を担いで
売り歩く水売りから水を買っていたそうだ。

石灰石を使った水のろ過機も作られ、販売されたが、一般庶民はそれを買えない家庭の方
が多かったようだ。だから庶民のできることは、水を溜めて不純物を沈殿させ、多少とも
純化した部分を利用するしかなかっただろう。そのために大型の水溜め容器がどの家庭に
も備えられていた。


VOCがジャヤカルタの町を滅ぼしてバタヴィアを建設した時、バタヴィアはジャヤカル
タの町の二倍に広げられ、チリウン川本流を中心にして、その東西に運河が縦横に走る市
街が作られた。運河のシステムはジャヤカルタになかったものだ。

運河が交通・防火・治安などの機能を持たされたのは言うまでもないとしても、生活用水
源としての機能が最上位に置かれたのは疑いあるまい。ジャヤカルタに最初にやってきた
ハウトマン船隊の乗員が触れたチリウン川の水はきれいに澄んでいて、飲むと美味かった
そうだが、その水質がバタヴィアに変わった後まで維持されることはなかった。

ジャヤカルタの総人口およそ1.5万人が1673年のバタヴィアでは2.7万人に膨れ
上がっていたのだから、かれらが生活の頼りにしたチリウン川の川水の汚染が進まなかっ
たはずもあるまい。おまけにチリウン川河口という低湿地帯のために、乾季に水がよどめ
ば人間の健康によくない状況が出現する。川の上流から流れて来たものばかりか、広大な
湿地帯に転げ落ちたさまざまな有機ゴミが腐敗すると、現代人の想像もつかないような腐
敗した空気が広範囲に漂うことになる。

もっと後の時代になって、バタヴィアを訪れたイギリス人が往々にして語った批評は、バ
タヴィアの蒸気という表現でなされた。バタヴィア港に上陸する来訪者を最初に歓迎した
のが周辺の湿地から立ち昇る腐敗した空気であるなら、バタヴィアを手放しで賞賛できる
人間は少なかっただろう。イギリス人はまた、バタヴィアの飲み水は汚いとも書き残して
いる。ヨーロッパ人が東洋に作り上げた美しいヨーロッパの都市の姿をしているバタヴィ
アをいくら絶賛しても、ヨーロッパ並みの暮らしができないのであれば、価値は大きく低
下してしまう。[ 続く ]