「伝説のジャワ虎(終)」(2021年01月28日)

地方伝統芸能として有名なレオッreogで人間がかぶるシゴバロンsingobarongはトラの頭
で飾られる。レデブールという名のハンターは1910年から40年までの間にトラを1
00頭しとめたと語っている。1930年にはトラ狩りプロモーションが行われてジャワ
虎の数を大幅に減少させた。1940年に西ジャワの南部と北部の山岳部でトラ狩りが盛
んに行われて、ジャワ虎は絶滅に向かった。

それ以前にジャワ島の至るところに棲息していたジャワ虎は、植民地時代末期のそのころ
でさえすでにウジュンクロンUjung Kulon、ルウンサンチャンLeuweung Sancang、バルラ
ンBaluran、メルブティリMeru Betiriにしかいないというのが一般常識になっていた。

ジャワ虎はまた、生命をかけて闘う勝負の代表選手にされた。トラ対トラ、トラ対野牛、
トラ対人間。人間の場合は戦闘士もあれば犯罪者もいた。犯罪者の場合は処刑ということ
だ。闘技場は槍を持った兵士でアリの這いでる隙もなく囲まれ、トラが相手を倒して逃げ
ようとすると槍ぶすまが待ち構えていた。トラの爪にかけられて生命を落とす兵士があっ
ても、兵隊は消耗品なのだ。マタラム王国では、このトラ試合のために年間百頭のトラが
死んだと見られている。

トラ対野牛には政治的意味が付加された。野牛がプリブミであり、トラはオランダ人とい
う想定が行われ、野牛が勝つと闘技場内に歓呼の声が轟き、トラが勝つと、トラの全身に
槍が突き立てられた。

ファン・デン・ボシュ総督の栽培制度開始以来、ジャワ島内の森林開発に拍車がかかり、
商品作物栽培のために森林が切り拓かれて農園にされた。それはジャワ虎の安全な生活領
域を人間が削り取って行くことでもあったのだ。その開拓期にブルブスBrebesやバニュマ
スBanyumasでは年間に数百頭ものトラが狩られている。

インドネシア共和国の独立維持闘争期には、オランダに武力反抗するインドネシア人が町
を捨てて山岳森林部に隠れた。更に山岳森林部の辺縁地区が開墾されて農園や畑が作られ
た。ジャワ虎の安全な生活領域が急激に減少したことは疑いあるまい。

人間の領域が拡大したことは、トラのみならず鹿の生活領域をも脅かすことになった。鹿
が減れば、トラの食料も減るのである。狩猟・食糧不足・生活領域の減少・炭疽症の病気
などがジャワ虎絶滅の原因であると言われている。


ジャワ虎実在の証拠を求めて暇があれば山野を渉猟しているジャワ虎保護民間グループメ
ンバーのひとりは、山岳森林地区の探査を行うときに、頻繁に森林周辺に住む地元民との
コンタクトが起こる、と語る。

地元民が持っている情報がその地区の探査で重要な意味を持つからだ。そのときに、地元
民のトラに対する気持ちが露にされる。「かれらはトラを自分たちのパートナーと見なし
ています。畑を荒らしに来る動物を怖がらせようとして、トラの像を作って畑に置いてい
るんですよ。かれらは自分たちとトラがひとつの関係の中で結ばれているように感じてい
ます。トラを殺すのは、そういう感情を持っていない外部者たちです。」

人間は強い者に対して、無条件で憧憬を抱き、尊敬の念を持つ。ジャワ島最強の野獣だっ
たジャワ虎への畏敬を農民が感じるのは多分自然なことなのだろう。だが地上最強の人間
が驕りを持てば、畏敬の念はけし飛んでしまうかもしれない。今起こっていることは、ひ
ょっとしたらそれなのではあるまいか。[ 完 ]