「バタヴィアのおぞましい水(終)」(2021年02月02日)

ムラユ華人文学者のひとり、1870年代にバタヴィアのパサルバルで生まれた華人プラ
ナカンのティオ・テッホンTio Tak Hongが書いた自伝の中に、バタヴィアの当時の水事情
を読むことができる。それによれば、バタヴィアの一般庶民は大きな容器に雨水を溜めた
り、川水を灯油缶ふたつに入れて担ぎ町中を売り歩く水売りから買って家の中に貯えた。
灯油缶ふたつが1ピクルpikulと呼ばれ、値段は1ピクルが1センだった。

ヴァーテルロー広場の井戸水が好まれたために、それを汲みに行くひとも少なくなかった
が、タナアバンTanah Abang地区のカンプンリマKampung Limaのアスムラマ通りJalan Asem 
Lamaにある一軒の家の井戸水が良質であるという評判を取り、荷車にその水を詰めた樽を
乗せ、近隣一帯で売り歩く者が現れた。ひと樽分の水が1.5フルデンだったと言うから、
結構なお値段にされたものだ。ところがそれが飛ぶように売れたという話だ。

このティオ・テッホン氏は本業がパサルバルの楽器店商売で、レコード盤も販売していた。
わたしの知っている1970年代のパサルバルの楽器店は店主がインド人ばかりだった印
象が強い。

ティオ・テッホン氏は書いている。
バイテンゾルフに住んでいたころにコレラが流行したので、わたしの一家はスカブミに避
難し、更にバンドンに移った。ところがコレラの進撃の方がずっと速かった。わたしの一
家は被害を免れたが、バイテンゾルフに戻ったとき、隣人がニ三人死亡したことが判明し
た。


コレラの流行は波状的に繰り返されたようだ。乾季がコレラのシーズンになった。雨季は
流行が下火になる。プリブミはこの病気をその嘔吐と下痢の症状から、muntaber(muntah 
berak)と呼んだ。コレラという病名でその伝染病が東インドにおいて認識されたのは18
21年で、適切な対応がなされないと患者が数時間で死亡することも起こった。

植民地政庁内における原住民問題担当官だったロールダ・ファン・エイシンガRoorda van 
Eysingaはバタヴィアを襲ったコレラ禍を観察して書き残している。「160人も死亡す
るような日々があった。かれらは激しい痙攣を起こした後、たいして時間をあけずに死亡
した。」

コレラの流行はヨーロッパ人をも恐怖のどん底に突き落とした。マラリア・チフス・赤痢
などの他のエピデミ―よりもはるかに急激に伝染していくのだから。1864年にはヨー
ロッパ人が240人犠牲になり、プリブミはその二倍に達した。

コレラの伝染経路は飲み水、食べもの、接触感染などである。だが細菌学の光が当てられ
る前の時代のひとびとはそれを魔物の所為だと考えた。その結果華人は曲芸獅子舞バロン
サイbarongsaiを演じて魔物を退散させようとし、コレラ患者が出るとプチナンではバロ
ンサイが町内を練り歩いた。一方、ムスリムプリブミはキヤイkyaiが祈祷を込めた聖水を
飲むことで罹病の予防をしようと努めた。

1910〜11年にかけて、バタヴィアはコレラの大流行に襲われ、6千人が死亡した。
死者があまりにも多かったために、墓地での埋葬が滞り、死者は棺のまま道路脇に置かれ
る始末だった。この大流行はバイテンゾルフにまで広がった。

19世紀末にバタヴィアからアチェ戦争に派兵されたひとびとの中に、コレラ菌を持って
アチェに行った者が混じっていた。アチェの戦線で発病したり、菌を拡散させたりしたた
めにKNIL内で病気が広がり、必然的にアチェ人の側にも病気が広がった。

コレラのワクチンが東インドにもたらされたのは1911年だ。しかし1920年までコ
レラは毎年流行し続けた。それは衛生観念が低く、また社会環境が人間の健康にどのよう
な影響をもたらすかということにあまり注意を向けないひとびとが招き寄せたものだった。
水の問題がそのひとつだったことは自明の理だろう。[ 完 ]