「ムルデカ(終)」(2021年02月08日)

イベリア半島でレコンキスタが完成したあと、1492年にフェルディナンド二世とイザ
ベラの宮廷はユダヤ教とイスラム教に対する禁教を宣した。その結果ユダヤ人やムスリム
の間で、スペインに残りたい者はカトリック教に移り、自分の宗教文化を捨てられない者
はスペインを去った。残った者たち、つまりスペインに住むためにカトリック教徒になっ
た元異教徒に対して、モリスコの名前が与えられたのである。

しかしそれは、文化の一部分としての宗教についてのものでしかなかったのだ。宗教は文
化の一ファクターであり、あらゆる文化ファクターと同様に文明の産物だ。宗教が人間社
会の根本に近い位置を占めるがために、宗教が文化の枝葉に大きい影響を与えてきたこと
は事実であり、社会生活のスタイルや色合いの概略の形を宗教が決める結果になったこと
も否めない。

しかしコミュニティにおけるライフスタイルの概略を形作った宗教の定める宗教行為が習
慣化すると、人間は宗教のために宗教行為を行う意識よりも、身に着けた習慣に追われて
宗教行為をするようになるらしい。ある日本人がインドネシア人ムスリムに「毎日5回の
礼拝を行うのはたいへんじゃないの?」と尋ねたところ、「いやあ、それをしないと気持
ちが悪いんですよ。」という返事が返って来たという話がある。これが義務を怠ることで
生じる罪悪感なのか、それとも習慣的行為をミスることで起こる非快適感なのか、どうも
それが入り混じっているような気がしないでもない。

わたし個人の見聞でも、敬虔な大人のムスリムに「あなたがたムスリムはたいへんに信仰
心の篤いひとびとですなあ。礼拝のたびに神と向き合っているのでしょうから。」と言っ
たところ、「いやあ、そんなひとは十人中でひとりかふたりですよ。大半は習慣として行
っているだけです。」という返事をもらったことがある。習慣は神よりも強いことを、そ
のとき教えられた。

スペインに住みたいのならユダヤ教やイスラム教を捨ててカトリックに移れと強制され、
それに従ったひとびとが自動的にユダヤやイスラムの文化を捨ててカトリック文化に移っ
たかと言うと、それは大いなる的外れだった。かれらは相変わらず従来のコミュニティに
住み、従来からの服装・言語・宗教行為以外の社会習慣を続けた。キリスト教文化の洗礼
名を与えられても、必要に応じて従来からのイスラム名に足したり外したりしていれば済
む話だ。ともかく、習慣化したライフスタイルを総入れ替えさせようとするなら、個人を
孤(独)人にして異文化社会に投げ込むしかないのである。コミュニティが習慣という基軸
に沿って自転する以上、コミュニティ全体を丸抱えで異文化に変えようとするのであれば、
流血しかそれを実現させる方法はないようにわたしには思われる。


1508年、スペイン王宮はイスラム風の衣服着用を禁止した。1567年、再度イスラ
ム風衣装を禁じ、同時にイスラム名、アラブ語の使用をも禁止した。ところが1607年
になって、フェリペ三世はモリスコの国外追放を決めたのである。スペインから追い出さ
れたモリスコの数はおよそ30万人と言われている。

百年以上前に、この土地に住みたければ改宗せよと言われて改宗したひとびとの子孫が、
その土地で生まれその地の文化の中で育ったひとびとが、問答無用でその土地から追放さ
れたのだ。スペインを去った後、かれらは自分たちを受け入れてくれた移住先の土地で、
改宗した先祖と同じことをまた繰り返さなければならなくなった。

かれらの大部分はどうやらオスマン帝国の版図に向かったらしい。スペインから追放され
たユダヤ人モリスコがオスマン帝国首都イスタンブールの外に小さいコミュニティを作り、
イスタンブールのカリフにブレーンとして仕えたという話もある。カリフはかれらをたい
へん重宝し、十分バランスの取れた待遇を与えたそうだ。ユダヤ対イスラムという色眼鏡
でこれらの事実を見ていては、人間というものが見えて来ないだろう。

それは別問題として、モリスコがたどったその悲痛な運命の道程を念頭に置いて上のクロ
ンチョンモリツコの歌詞を読むと、歌詞の意味が見えてくるのではないだろうか。[ 完 ]