「クロンチョンとダンドウッ(2)」(2021年02月10日)

クロンチョンが隆盛を極めた時代を体験しなかったひとには、そのような見解を受け入れ
ることは困難だろう。しかし1951年に出された論評は多少ともその見解との一致を示
している。インドネシア共和国が完全主権を得てやっと一歳になったその年、クロンチョ
ンは国民芸術という枠の中でたいへんな意味を持つ文化現象として受け入れられた。メス
テル・スマナンの率いる週刊誌Nasionalの第2年第42号の文化欄にキ・ハジャル・デワ
ントロが書いたコラムがそれだ。引用すると:
当時、クロンチョンはインドネシア音楽の中で最も弱いジャンルをなしていた。・・・
(1)女性歌手たちの出身環境が高尚でなかったこと (2)男性歌手たちが女性への媚態を歌
唱の中に込めたこと等 (3) 強請り・強盗・スリなどを意味するブアヤクロンチョンなる
言葉の存在などのゆえだ。反対に、あまりにも西洋音楽に引きずられているとインテリ層
を非難する者もいた。・・・

その論評に見られるのはクロンチョンに対する単なる批評でなく、拒否なのである。しか
も音楽それ自体に備わったメロディ・リズム・ハーモニーの一体感が生み出す音楽性の表
現に対するものですらなくて、音楽がもたらす副次効果に向けられた拒否なのだ。

問題の中心に置かれているブアヤクロンチョンという言葉は、19世紀末に名を上げたク
ロンチョンバンドDe Krokodilenに由来している。クマヨランのIndo(オランダ系ユーラ
シアン)たちが編成したこのバンドは演奏の巧みさと、心と肉の男女関係を歌い上げる歌
詞で若い娘たちをとりこにした。その伝説は語り継がれて、インドネシア共和国の揺籃期
にまで社会記憶が持ち越された。それがために1950年代ですら、街中を流して歩く巡
回バンドが自分の家のある路地に入ってきたら、すぐさま窓を閉める親が大勢いた。自分
の娘が窓から飛び出してあのブアヤたちを追いかけるかもしれないという不安に取りつか
れたのだろう。


クロンチョンが元ポルトガル奴隷のコミュニティで生まれたとはいえ、多くのひとびとが
思っているような、クロンチョンがポルトガル由来のものであると言う説には同意できな
い。インドネシアの地にポルトガル人がはじめてディアトニックをもたらしたというのは
正しい。事始めは1535年のアンボンで、ポルトガル人が原住民のための学校の必要性
を感じたとき、フランシスコ・ザビエルがその文化活動の礎石を築いた。かれはカトリッ
クの聖歌Ave Maria、Doa Bapak Kami、Kredoなどをムラユ語で歌わせた。だが西と東の結
びつきであるクロンチョンは完全にプロテスタントの特徴を持っていると言わねばならず、
それはつまりポルトガル系でなくてオランダ系になっていることを意味している。その証
拠はクロンチョン音楽自身が持っているコード式和音進行に見ることができる。トニック
・ドミナント・サブドミナント・ダブルドミナントの四つによって和音進行が展開されて
いるのだ。このコード式和音進行がプロテスタント教会コーラスの、もっと言うならルタ
ー派聖歌音楽の特徴であることは否定できない。プロテスタント教会コーラスは、バッハ
やベートーヴェンに倣ったパレストリーナの様式に見られるカトリック教会のラテン語聖
歌ほど難しくない。マルティン・ルター自身がこう語っている。「愛についての聖書の教
えを心に行き届かせるために、礼拝音楽は簡単なものにしなければならない。」

和音進行の点以外にも、愛の表現について神学面から見た逸脱が目立つ。愛に関する表現
は元々精神的な面だけが本質とされていた。ところが、それが肉体的なものに変わってい
る。

クロンチョンの歌詞として典型的な表現、あるいはクロンチョンの魅力を生み出している
言葉としてindung disayang、sayang disayang、またポピュラーなaih zoeteliefという
艶っぽいシャウトなどが存在している事実がある。それらは人間と神の関係の中で愛され
ることを願う表現パターンだったものが、カトリック=プロテスタント典礼の伝統の中で
憐みを乞う表現に変化した結果だ。

つまり、昔その表現はKyrie eleison(神よ、われわれを愛し憐みたまえ)だったものが
軽いAih zoetelief, sayang indung disayang: kekasihku kasihi dan kasihanilah daku.
というものに変わったということだ。意気地なしの印象は別にして、これは心を酔わせて
誘惑することにかけて比類ない能力を持つものだったのである。[ 続く ]