「クロンチョンとダンドウッ(5)」(2021年02月17日)

最後にランガムだ。ランガムは多分インドネシア音楽の中でもっとも長命で、しかも一番
西洋かぶれしたものだろう。インドネシア音楽はこのランガムから次のヒブランの時代へ
と続いて行ったのである。hiburanとは英語のentertainmentあるいはamusementの訳語で
ある。ダンス伴奏のための、ボールルームフロアにつきものの音楽がそれだった。それが
1960年代にポピュラー音楽になっていった。

ランガムとはティンパンアレイTin Pan Alleyとハワイアンとクロンチョンが融合したも
のだ。ティンパンアレイというのはニューヨークのブロードウェイの一地区から採られた
名前で、演劇音楽の一種であり、ハリー・フォン・ティルザーが1905年に作ったWait 
till the sun shine, Nellieにヒントを得たものだ。この歌はインドネシアで大流行し、
1920年代までスタンダードの地位を維持した。ワゲ・ルドルフ・スプラッマンとかれ
のジャズオーケストラBlack and WhiteがマカッサルのボールルームKazerneで、ベローニ
BelloniとかれのオーケストラConcordia Respavae Crescuntがバンドンのハルモニ社交場
のダンスフロアで演奏した。このダンス音楽のジャンルは更に、1918年にインドネシ
アで流行ったビリー・バスケットとジョセフ・サントリーの曲ハワイアンバタフライをき
っかけにしてスライドバーを使う電気式ハワイアンギターを加えるようになった。


二度の世界大戦の合間の時期にジャカルタのエンターテインメント世界をリードしたスタ
ーたちは楽器演奏にかけて比類ない腕前を持つ東部インドネシア出身のミュージシャンた
ちだった。かれら東部インドネシアの諸種族は19世紀に教化育成されてオランダ植民地
を維持するのに協力する同化種族というステータスを与えられ、オランダ人にエリートと
して遇された種族だったのである。マナド人やアンボン人の著名ミュージシャンにHein 
Turangan、Etto Latumeten、Nico Mamahit、Tjok de Fretes、Jacob Sigarlaki、Boetje 
Pesolima、Tjok Sinsuらがいる。

同化エリートという立場が偏見を生んで怨恨に向かい、その者たちが作る音楽が非エリー
トから憎しみと怒りを浴びたのは、起こるべくして起こった当然の成り行きだったにちが
いあるまい。理由は簡単だ。その音楽が、植民地支配下に置かれ、生活苦にあえぎ、貧し
く、飢えているインドネシアの一般庶民大衆の現実生活に根ざしたものでなかったためだ。

それはオランダ人やオランダ系インドがあちこちのボールルームでダンスし、オランダ語
でペラペラとおしゃべりするような場所での音楽だったのだから。そのパラドックスが戦
前の時代にランガムについてcincang babi音楽という蔑称を生み出し、それは1950年
代まで継続した。それはふたつの意味を持っていた。ひとつは意味不明な面白おかしい音
として、もうひとつはハラムだ。


ランガムとクロンチョンの境界線ははっきりしない。第一回Bintang Radioコンクールが
開催された1951年に主催者が三つの音楽ジャンルをクロンチョン・ヒブラン・セリオ
サという名称で標準化する前、ダンスがランガムとクロンチョンを区別する基準にされて
いた。そのためにダンスのリズムの名前でランガムを呼ぶことがしばしば行われた。クロ
ンチョンタンゴ、クロンチョンルンバ、クロンチョンフォックストロットがそれだ。タン
ゴはアルゼンチンのダンス音楽、ルンバはキューバの、そしてフォックストロットは米国
のダンスリズムである。

最後に、クロンチョンフォックストロット、クロンチョンルンバ、クロンチョンタンゴに
対する偏見がそれら音楽演奏者たちの振舞いに根ざしたものであった点に注目することも
重要だろう。そのエリート階層には表立った高慢さ、西洋化したプリブミ階層の地位がそ
うでない階層より高く優れているという植民地的傲慢さが培われた。かれらはただペラペ
ラ言葉をしゃべり、ボールルームでダンスし、ビールを飲むというだけのことでインテリ
・モダン・教養があるという賛辞を与えられたのである。[ 続く ]