「クロンチョントゥグ(2)」(2021年02月22日)

パラワ文字で記された5行の碑文はプルナワルマン王の行った運河建設工事を讃える内容
で、チャンドラバガ(現在のブカシ川)とゴマティ(現在のチャクン川)を結ぶ全長11
キロの運河が作られ、この運河はタルマヌガラの王宮の前を通ってジャワ海まで水を導い
た。洪水対策と同時に水田への灌漑が目的だったと考えられている。だが自然の猛威は人
間の努力を小ばかにするかのように、はるかに大規模な洪水を送りつけてタルマヌガラ王
国を崩壊させた。

であるなら、1878年に石碑が発見される前、ポルトガル系マーダイカーコミュニティ
が開拓して住んだ土地の名前は一体何だったのだろうか?2百年以上も別の名前で呼ばれ
ていたものが、石碑が発見されたために突然トゥグという名前に変更されたのなら、旧名
がなんらかの記録に残っていていいはずだ。

別の説では、土地境界標識(塚=オランダ語paal)のことだというもの、あるいは目印の
大石のことだというもの、更には相当にひねったものとしてPortugueseの真ん中の四文字
-tugu-を取ったというようなものまで、百花繚乱になっている。


1661年にかれらが開拓したトゥグ村は、周辺のムスリムプリブミ居住地域からだいぶ
離れていたのではあるまいか。だからこそ、バタヴィアの教会がそこを推奨したように思
われる。もっと後の時代になってトゥグ村のことをバタヴィアのプリブミ庶民はキリスト
教徒の土地タナスラニtanah seraniと呼ぶようになった。近隣をムスリムの村々で囲まれ
ていれば、そんな呼び方はなされないだろう。

ちなみにスラニとはアラブ語でキリスト教徒を指すnasraniに由来しており、アラブ語ナ
スラニの語源はイエス・キリストが幼少期を過ごしたナザレだそうだ。

プルナワルマン王の石碑が発見された場所はタンジュンプリオッの東側で現在のトゥグ村
の南にあるトゥグバトゥトゥンブTugu Batu Tumbuh村の域内であり、現在はスカプラ〜ク
ラパガディン大通りのど真ん中になっていて、大型車両が右往左往している産業道路のい
ったいどこに石碑が立っていたのか、まるで分からないのが実情だ。

それはともかくとして、マーダイカーコミュニティが新しい村を起こしたとき、その地域
先住の地元民はプルナワルマン王の石碑のことを昔から知っており、しこうしてその土地
をトゥグと呼んでいた可能性をわたしは感じるのである。1878年に石碑を「発見」し
たのはオランダ人だけで、地元民たちにとっては「何をいまさら」ということだったので
はないだろうか。であるなら、それは世界のディスカバリー物語とまったく同じロジック
になる。インドネシア人が西洋史観で自分の歴史を書くようなことなど、しないでほしい
ものだ。

バトゥトゥンブという言葉がそれを裏書きしているように私には思われる。見映えのする
プルナワルマン王の石碑を地域内の先住者たちはバトゥトゥンブと呼び、それを聖なる力
を持つ物体として礼拝の対象にしていたという話もインドネシア語情報の中に見つかる。
異教徒解放奴隷がやってきて開拓を行う何百年も昔から、域内先住者たちは既にその石碑
を発見していたのである。その石碑をトゥグという言葉に結びつけるのであるなら、オラ
ンダ人が石碑を「発見」する前から地名は既にそうなっていたと考える方が自然ではある
まいか。


移住した23世帯のプロテスタント教徒マーダイカーたちは、そこで生活を始めた。宗教
行為はメルヒオル・ライデカー牧師Ds Melchior Leydeckerがバタヴィアから派遣されて
常駐し、統率した。この牧師は医薬分野の専門家だったそうだ。礼拝はポルトガル語で行
われ、またマーダイカーコミュニティの生活指導にも尽力したことから、この牧師がカン
プントゥグの建設者と呼ばれることもある。カンプントゥグに教会が建ったのは1678
年で、その木造の教会には学校が併設されてコミュニティの子供たちが通った。それがジ
ャカルタで最も古い学校だと言われている。[ 続く ]