「クロンチョントゥグ(4)」(2021年02月24日)

バタヴィアの開祖、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンでさえ、バンテン時代にかれの盟友
になった華人社会の有力者ソウ・ベンコンSouw Beng Kongとの会話はアジア版ポルトガル
語で行っている。ソウ・ベンコンはバタヴィアの華人社会を統率するカピテンチナの初代
を務めた。バタヴィア城市が開かれてからかなり長期にわたってアジア版ポルトガル語が
バタヴィアにおける生活言語のひとつになっていた。アジアの至る所から集められた奴隷
たちとの意思疎通がムラユ語一本で可能だったはずもあるまい。


トゥグコミュニティでの生活言語がポルトガル語からムラユ語へ変化して行ったはじまり
は1930年代だった。その後の世代は徐々にポルトガル文化から離れて、きれいな言い
方をすればコスモポリタン文化、耳ざわりの悪い言い方をするなら雑種文化への傾倒を強
めて行った。そして20世紀末には、ポルトガル語を話せる者がひとりもいなくなったの
である。

クリスチャン最大の祭りであるクリスマスになると、コミュニティのひとびとは互いの家
を訪問し合い、ポルトガル語の口上を述べるのが礼儀作法のひとつだった。その口上は次
のような文句になっている。これはポルトガル語の音をインドネシア語表記で書いたもの
であり、ポルトガル語の達者な方はその音からポルトガルの原語を想像して内容を解釈で
きるかもしれない。しかしこれは疑いもなくアジア版ポルトガル語だろうから、果たして
意味が取れるかどうか。
Pisingku dia di Desember, nasedu di nos Sior jamundu Libra nos pekader unga 
ananti dikinta ferra asi klar kuma di dia unga anju di Sior asi grandi dialler-
gria. Asi mow boso tar. Dies lobu Sua da bida cumpredae lampang kria so podeer, 
Santu justru. 
昨今のクリスマスにトゥグを訪れても、もうその口上は聞かれないそうだ。

同じように、クリスマスイブには深夜に若者たちがクロンチョンを奏でながら家々を訪問
する風習があった。各家の年寄りに挨拶をして回るのである。しかし1986年にその風
習は終わりを迎えた。トゥグ村の領域内に外部者が土地を買って住む現象がますます勢い
を増し、トゥグコミュニティの人間が反対にブカシやプジャンボンに引っ越すケースが増
加したのだ。クリスマスを祝わない隣人たちが寝静まっている中、クロンチョンを奏でな
がら賑やかに夜道を歩き回ることを先住者の権利としなかったかれらの慎みはすがすがし
いものと受け止めてよいように思われる。

しかし、クリスマスイブに先祖の墓参を行うトゥグ村の習慣はなくならない。マーダイカ
ーコミュニティのひとびとは昔から、深夜にトゥグ教会の墓地に詣でて先祖の供養を行っ
てきた。この習慣がポルトガル文化のものであったとは思えない。カトリック教徒の墓参
日は違う月だからだ。どうも純然たる西と東の文化融合がこの習慣を生んだように思われ
るのである。ちなみに、総面積2千平米のトゥグ教会の墓地にはトゥグ村を開いたマーダ
イカー第一世代も眠っている。


バタヴィア城市とトゥグ村は地理的にかなりの距離があって、交通の便が悪かった遠い昔
のことを思えば、島流しだの、自滅するように遠隔地に捨てたなどの想像が湧くのも無理
はないかもしれないが、実際にバタヴィア城市とトゥグ村間の交通は、それほど不便なも
のではなかった。

バタヴィア城市北部のバタヴィア港(今のパサルイカン)から船で東のチリンチンに向か
い、ムアラマルンダMuara Marundaからチャクン川Kali Cakungの河口に入って遡行し、し
ばらく行けばトゥグ村に至ることができたのである。トゥグ村の中を流れるチャクン川に
はたいてい船がもやっていて、村人が漁をするときも川漁ばかりか海まで出てタンジュン
プリオッ近辺で海漁をすることも頻繁だった。[ 続く ]