「クロンチョントゥグ(5)」(2021年02月25日)

トゥグ教会はチャクン川に面して建てられており、1940年代ごろまでバタヴィア住民
がトゥグ教会で結婚式を挙げるために船を連ねてやってきていたという話もある。しかし
1942年に日本軍政はチャクン川から船を追放し、トゥグとジャカルタ北部を結ぶ水上
交通路を閉鎖してしまったそうだ。

その海路を取る交通の便利さを知らないひとが陸路の不便さを見て島流し論を打っていた
のかもしれない。陸路を経る場合は、バタヴィア城市の東側に作られたメステルコルネリ
スに向かう街道を通る。街道を南下してメステルコルネリスに達したあと、東に折れてさ
らに北上し、チャクンに出てから北西に7キロほど逆戻りするという遠路を越えなければ
ならなかったのだから。


トゥグ村のマーダイカーコミュニティは最盛期に6百世帯ほどあったそうだ。かれらは長
い歴史の中で、19世紀末までコミュニティ内の別ファミリーとしか結婚することが許さ
れなかった。先祖代々のモノカルチャーを固持していたようだ。

20世紀になってトゥグ村の生活環境が変化するようになり、村民の生活領域も広くなっ
たことから、マナド・アンボン・ティモール・ジャワ・華人プラナカンなど同じキリスト
教徒を配偶者に持つ機会が増加した。結果的に外見的な肉体上の特徴が一般的なインドネ
シア人と類似のものになっていき、見ただけではトゥグ村の人間かどうかが分からないよ
うになってしまった。

6百世帯の三分の一はその後、イリアンや西ジャワ・東ジャワなどに移住した。スカルノ
レジームが行った西イリアン解放戦争でオランダ領ニューギニアがインドネシア共和国に
移管されたとき、イリアン在住のトゥグ村マーダイカー出身者たちはインドネシア国民に
なるか追放されるかの選択を余儀なくされた。インドネシア共和国完全主権承認でKNI
Lのプリブミ兵士に起こったのと同じことが繰り返されたのである。かれらはプリブミか
らの敵視を恐れ、オランダに移住してインディシュの一部になった。

今では、トゥグ村の伝統コミュニティに所属する世帯は200軒足らず、またトゥグ村の
外に出て行った世帯は230軒程度になっている。おまけにトゥグ村開拓時代以来、村の
中心になっていたトゥグ教会の近辺は、今そのエリアはスンプルSemper五差路からチャチ
ンCacing大通りまでの領域になっているのだが、そこに残っている一族はほんの数えるほ
どしかいない。元々かれらは接近して集落を作らなかったから、その間のスペースが新来
者によって埋め尽くされてしまったと言えるだろう。

4百年近くも生き残ったひとつの種族としては、このトゥグマーダイカーコミュニティの
人口数は予想外に小さいものだ。トゥグ村はすでにインドネシア共和国の国是そのままに
多様性の支配する土地になっている。何世紀にもわたってスラニの地だったトゥグ村も、
国民であるさまざまな種族が入り混じって住む土地に変貌せざるをえなかった。そこを住
処にしてきたマーダイカーコミュニティは、今や十万人を超える南北トゥグ町の住民人口
の中で完全なマイノリティになっている。


トゥグ村がポルトガル系マーダイカーの村だった時代は、インドネシア共和国独立と共に
そのようにして終わった。共和国は、特定人種種族がエクスクルーシブなカンプンコミュ
ニティを作ることを最初から否定した。全国民は文化言語がどう違っていようが、すべて
平等同等の国民として混じり合って暮らさなければならないのである。こうして、キリス
ト教徒の土地トゥグは徐々に徐々に、ムスリムプリブミ住民がマジョリティを占める方向
へと変化して行った。村を挙げてクリスマスイブを祝うことはできなくなってしまったの
だ。[ 続く ]