「恐怖のフロンテイアー(3)」(2021年02月25日)

ラフルズはトラと水牛の決闘が面白い見世物だったと書き残しているものの、トラが水牛
や野牛を襲う場合は、ラデン・サレが描いたような正面から飛び掛かって行く方法でなく、
後脚の筋を食いちぎって動けなくするリスクの低い方法を採るのが普通だった。

ソロのススフナンはトラと水牛の決闘でプリブミに見立てられた水牛がオランダにシンボ
ライズされたトラに負けそうになると、時に勝負を中断させたそうだ。ジャワ人の諺のひ
とつにOjo bodo koyo kebo. つまりJangan bodoh seperti kerbau.というものがあって、
この精神構造はいささか韜晦的なものを感じさせてくれる。もちろん水牛が神聖視されて
いる面もあり、たとえばバグレン地方でニャイバグレンNyai Bagelenの子孫は水牛の肉を
食べることが禁じられている。しかしヌサンタラではトラも畏敬の対象になっていて、各
種族はkyaine, datuk, embahe, sima leluhurなどの明らかに尊敬を示す呼称をトラに与
えている。

インドで王たちがトラ狩りの習慣を持ったのとは対照的にジャワでそれが行われなかった
のは、動物変化の思想がヌサンタラにあることで説明できるように思われる。現在までも
いまだに続いているその思想では、超能力を持つ何者かが動物に化けて人間界に姿を現わ
す現象が信じられていて、それはsilumanやjadianと呼ばれている。動物をむやみに殺す
ことはそれに変化した何者かを殺すことになるかもしれず、殺した者やその一族がその何
者かからの復讐や罰を受けることになる恐れがあるのだ。

スマトラでもジャワでも、時に民衆がトラを捕まえることに消極的になるのは、祖先がト
ラの姿で現れているのかもしれないと考えるためである。祖先は子孫を守るためにやって
くるのだから、それに攻撃的になる子孫ほどの親不孝はないと考えて当然だろう。この思
想を反映して、macan bumiやsima leluhurなどの名称がトラを指して使われる。

トラは時にマンイーターになるというのに、ジャワ社会でトラが尊敬される地位に置かれ
ている事実はどう説明されるのか。それに答えるためには、ジャワの宗教についてわれわ
れはもっと多くを知らなければならないのだ。ジャワでは、正の極に神がいて邪の極にニ
ャイ・ロロ・キドゥルがおり、バリにも同様にバロンとレアッがいて、それらの両者が奉
られている現実がある。ジャングルの王であるトラは人間社会と対立して正の極に置かれ
るものという解釈ができる。森の王者としてのトラはニャイ・ロロ・キドゥルのようにバ
タラ・カラの変化と解釈されるのである。

ワヤンクリの場面の幕間にグヌガン型のシンボルで象徴的に登場するトラはアニミズム的
基本信仰の反映である。トラがまとった猛々しさと雄々しさのシンボルは舞踊やレオッポ
ノロゴでかぶる縞模様の仮面の形でショーに用いられている。トラに襲われて死んだ住民
のための復讐への戒めに、犠牲者が犯したタブーへの違反が往々にして語られる。祖先が
トラに変化して違反者を罰したのだ、と。ボームハーツはそれらの事実を、きわめてオリ
エンタルな話だとコメントしている。

オランダ植民地政庁が住民に褒賞を用意してトラを殺すように勧めて以来、そのようなト
ラ信仰に変化が起こり始めた。22フローリンという褒賞金額はその当時、十分に垂涎も
ので、プリブミの間にトラを襲う傾向をもたらした。その結果、褒賞を与えるという布告
が1897年に撤回されたとき、ジャワ虎は既に希少動物になっていた。

< マンイーター >
人間とトラの特殊な関係の存在をボームハーツはその著作の中で結論付けている。お互い
にどちらかが相手を倒すというアンタゴニスティックな関係だ。トラは肉食動物であるが
ゆえに、倒される者が必ず存在する。ところが、トラが倒した相手が人間であった場合、
その者の親族や関係者からの復讐がトラにつきまとう。[ 続く ]