「ユーフェミズム」(2021年03月01日)

ライター: インドネシア大学文化科学部名誉教授、ベニー・フッ
ソース: 2006年11月3日付けコンパス紙 "Eufemisme"

ユーフェミズムeufemismeとは何か? KBBIの定義によれば、ungkapan yang lebih 
halus sebagai pengganti ungkapan yang dirasakan kasar yang dianggap merugikan 
atau tidak menyenangkan、例としてmatiの代わりのmeninggal dunia、となっている。
1991年版ウエブスター辞典は、the substitution of an agreeable or inoffensive 
expression for one that may offend or suggest something unpleasantだ。古代ギリシ
ャ語のeuphemosに由来していて、sounding goodがその意味だそうだ。

ユーフェミズムがしばしば偽善的表現として嘲笑や侮蔑の対象になるのは興味深い。それ
は正しいものなのだろうか?ユーフェミズムはあらゆる文化に存在する言語習慣で、社会
生活の縦方向と横方向の対人接触における言語上の礼儀作法の一部をなしている。縦方向
においても、上位にある者が下の者に対する話法に意を払うのは、そうする必要があると
感じるからだ。局長が部下に対して「Saya turut berduka atas matinya orang tuamu, 
Man」と言う代わりに「Saya ikut berduka atas wafatnya orang tuamu, Man」と述べる
のである。

家の外で隣人と出会って、「Gimana kabar Ibu?」と言うとき、Ibuはistriを指している。
istriにあまり敬意が感じられないために、ibuの語を使って敬意を込め、聞き手に心地よ
さを感じさせるのである。住宅地で友人の家を探すとき、その辺りにいるひとに尋ねると
「Kurang tahu.」という言葉が戻って来る。その意味は「Tidak tahu.」なのだ。それら
はすべてユーフェミズムなのである。ユーフェミズムとは、相手のツラを張倒すのでなく、
心地よさを与えるために使われるものなのだ。

ユーフェミズムがインドネシア文化にだけあると思ってはいけない。英語にも言語表現に
おける礼儀作法がある。not very brightはstupidの代わりに使われ、deadはto pass away
と言い換えられる。

ユーフェミズムは相互尊重原理を基盤に置いているのだから、婉曲的な表現は偽善的だと
そう単純に非難してはならない。隣組長が町内に住む金持ちに対して「Pak, tolong kami 
diberi sumbangan untuk konsumsi yang kerja bakti.」と言わず、「Hari Minggu nanti 
ada kerja bakti, Pak Sam. Anak-anak muda biasanya perlu makan dan minum.」とだけ
言えば、サム氏は隣組長が寄付を求めているのだと理解し、組長を偽善者だと決めつける
ことはしない。社会生活が安定的に進展して行くために、そこに言語表現における礼儀作
法が必要とされている。基本は相互尊重なのである。普通の社会構成員はユーフェミズム
の解釈の大枠を理解している。

政治コミュニケーションにおいてはどうなのか?コミュニケーションターゲットからの拒
絶を避けるためにユーフェミズムは時に必要とされている。kenaikan harga-hargaと言わ
ないでpenyesuaian harga-hargaが使われたように、オルバ期のいくつかの表現は興味深
いところである。かと言って、レフォルマシ期にその類のものがなくなったと思ってはい
けないのだ。pemekaran kecamatanという公式用語が意味しているのはpemecahan satu 
kecamatan menjadi duaなのである。ところがpemecahanはNKRIの風土にふさわしくな
いのが明白だ。ユーフェミズム表現を公共の場で論じることはもちろん禁じられていない。
それは政治におけるデモクラシーの問題なのである。

ユーフェミズムについてわれわれが認めなければならないのは、それが相互尊重を基盤に
置いた社会的文化的生活の一部になっているということだ。言語表現における疾病ではな
いのである。