「ユーフェミズム、また」(2021年03月02日)

ライター: 言語オブザーバー、サムスディン・ブルリアン
ソース: 2006年12月1日付けコンパス紙 "Eufemisme Lagi"

ユーフェミズムは疾病でないとベニー・フッは11月3日のこの欄に書いた。もちろん正
しい。しかしそれは百パーセント正しいのだろうか。ユーフェミズムが素晴らしいものな
のか、疾病なのか、偽善的なのか、礼節に満ちたものなのか。その答えはコンテキストと
目的次第だろう。

もしあなたが隣人を弔問に訪れて「Bapakmu akhirnya keok juga.」などと口走ったら、
あなたも後を追ってkeokになるかもしれない。しかしもしも将軍がまくり上げた腕を振り
上げて「Merdeka atau meninggal dunia!」と叫んだら、兵士たちはどんな反応を見せる
だろうか?

ユーフェミズムがコミュニケーションの便宜をはかるものであるのは明白だ。感情を傷付
けず、礼節を示し、敬意や尊重を感じさせる。また、buang air, kamar kecil, kemaluan
などのように、嫌らしくあるいは恥ずかしいと考えられているものごとを気兼ねなく表現
できる。世界中のどの言語もユーフェミズムを例外なく知っており、また使っていること
は疑いのないところだろう。

時にユーフェミズムの意欲が天を衝いて、ネガティブな含意を持っていない言葉まで卑語
扱いされてしまうことが起こる。たとえば、kau, kamu, kalianを使うことに人はしばし
ば気兼ねする。それらの語の使用に本来的な誤りはない。問題は多分、深層意識に根付い
た封建精神にあるのだろう。だからおとなが何の精神的負担もなしに相手をkauやkamuと
呼ぶようになったとき、それをインドネシアのデモクラシーが成熟したことを示すインジ
ケータとして見ることができよう。


ユーフェミズムが他人の感情への思いやりを示すならそれは素晴らしいものだが、それが
話者本人のために使われる場合は、真実を隠蔽し、他人を惑わせ、事実から目をそらせる
といった働きをする。この種の用法をひとはユーフェミズムと呼び、その偽善性を非難し
ているのである。

もっともよく知られたユーフェミズムのひとつに、多数のユダヤ人に対するシステマチッ
クな大量殺りくをナチスドイツが呼んだfinal solutionというものがある。話者の精神的
負担をなくすために、ユーフェミズムがソリューションとして使われて来たことは間違い
ない。最近では、イラクの市民犠牲者を米国がcollateral damageと呼んでいることに議
論が集まった。そう呼ぶことで、問題を終了させたのである。

kurang giziの中にひそんでいるkelaparanやbusung laparを政府高官が認めようとせず、
かれらを救える立場にありながらその緊急性に気が付かなかったために国民が無駄に生命
を落としたとき、ユーフェミズムは疾病になっていたのではあるまいか。

tunasusilaがpelacurよりも上品だというのは、いったいどういうことなのか?pelacurの
語義が良くないのはもちろんだが、tunasusilaはpelacurをモラル上で断罪しているのだ
からもっとひどい。社会経済問題を解決しようと努める代わりに、かれらはpelacurを倫
理の崩壊した者に位置付けて反論の余地を奪ったのだ。

このような思考パターンが、夜間、家の外にいる女性に対する公的な女狩りを生み出した。
この問題に関してもっともtunasusilaな人間は全身全霊で他人を搾取し、他人の美と無力
さから利益を搾り取る獰猛な女衒であるのは言うまでもない。

pekerja seks komersialはまだマシだが依然として妥当性に欠けている。かの女たちの多
くが最初からその職業を選んでその世界に入ったのでなく、誘拐され、騙され、強制され
てそうなったのだという事実が無視されている。

社会がかの女たちを倫理破壊者・闇商売の女・保護されたり国家機関のサービスを受ける
資格のない人間などと見なしているかぎり、ユーフェミズムはたいした助けにならない。
それは実態を耳ざわりのよい言葉で覆い隠し、事態を悪化させるものにしかならないから
だ。