「クロンチョントゥグ(8)」(2021年03月02日)

クマヨラン村はパサルスネンの外側にできた居住地区で、古い歴史を持っている。195
0年代ごろまでオランダ系Indoがたくさん住んでいて、一見してオランダ人に見える者が
多かったために、プリブミはかれらをBelanda Kemayoranと呼んだ。クマヨランという地
名の語源はカピテンチナの下でより狭い地区を担当するマヨールチナの地位名称に由来し
ているとのことだ。

クマヨランのIndoたちはプリブミを誘ってクロンチョンバンド・リフドゥヤファLief de 
Javaを編成し、音楽活動を行った。リフドゥヤファはM Sagi, Isbandi, Ani Landauw, 
Benyamin Sなど、インドネシア共和国初期の音楽シーンで名を馳せたミュージシャンを輩
出させている。クロンチョンにジャズの要素を盛り込んだリフドゥヤファはクロンチョン
クマヨランの異名でも呼ばれ、コンサートやパーティと並んでラジオ放送局NIROMの
音楽番組にもしばしば出演した。クロンチョンクマヨランの最盛期は1960年代ごろま
でで、それ以後トゥグと並んでクロンチョンのもうひとつのメッカになっていたクマヨラ
ンから、クロンチョンのリズムは徐々に遠のいて行った。

1950年代になると、ジャワの都市部でクロンチョン楽団によるクロンチョン音楽が活
発化した。その音楽はランガムジャワlanggam Jawaと呼ばれ、Sutedjoの率いるKeroncong 
Irama Langgam楽団やWaldjinah率いるKeroncong Bintang Surakarta楽団が名を挙げた。


さまざまなクロンチョンの名称の中にクロンチョントゥグkeroncong Tuguというものがあ
る。クロンチョンの御本家であるトゥグのマーダイカーコミュニティが演奏しているクロ
ンチョンという意味でその言葉が使われる。最初はギターやウクレレ状の小型ギターだけ
が歌の伴奏で、トゥグの祖先たちはチェロやコントラバスを使わなかった。他に昔から使
われていたものにtamburやrebanaがあり、モール人の音楽との関りを想像させる。

その後の時代の流れに連れて演奏者が増加し、楽団の編成楽器はギター類に加えて、笛・
太鼓・ルバナ・マンドリン・セロ・クンプル・バイオリン・トライアングルなどが増やさ
れて行った。特にバスが使われるようになったのは20世紀に入ってからだ。

昔の演奏曲目はMoresco、Nina Bobo、Founga、Kafrinyoだけがレーパートリーだったが、
その語イラマスタンブルやイラマムラユの曲目が追加されて行った。クロンチョンに関わ
るモリツコmouriskoという言葉のmour/moorとはモロッコを指し、iskoは楽団を意味して
いたという説もある。


1960〜70年代にクロンチョントゥグの存在を世に知ろ示したのがオルケスクロンチ
ョントゥグだった。この楽団はジョセフ・クイーコのメロディギターを筆頭に、フランス
・アブラハムが第二ギター、ヤコブス・クイーコがバイオリン、アーレント・ミヒエルス
がチェロ、オパ・ワアスがマンドリンと歌、アテン・ソパヘロカンがクロンチョン1、サ
ムエル・クイーコがクロンチョン2、フェルナンド・クイーコがルバナ、エルピト・クイ
ーコがトライアングル、そして女性歌手はオマ・クリスティネとオマ・ワアスというメン
バーから成っていた。

この楽団の全盛期だった1972年、フランス国籍のベトナム人が楽団を訪れた。自分は
ユネスコから派遣された者で、「伝統芸能の記録資料のためにクロンチョン音楽を録音さ
せてほしい。決して商業化するためのものではない。」と言う。楽団は二つ返事で了承し、
アーレントの家で録音が行われた。そのとき、かなり多数の曲が録音された。

1974年、アーレントがオランダに住む弟を訪問したとき、クロンチョントゥグ楽団の
レコードがシリーズで発売されていることが話題になった。アーレントは不思議に思った。
そんなことをした記憶はないのだから。ひょっとして、誰かが名前を騙って録音したもの
ではないだろうか。[ 続く ]