「クロンチョントゥグ(終)」(2021年03月04日)

伝統を続けて行くために次世代楽団は不可欠であり、アンドレは自分の子供やコミュニテ
ィの若者たちを誘ってジュニア楽団を作り、伝統維持を絶対方針にしてクロンチョン音楽
の指導育成に献身している。


リーダーのアンドレは1967年生まれ。カンプントゥグに定着したミヒエルス家の十代
目の子孫に当たる。かれの実父アーレント・ミヒエルスはクロンチョン楽団プサカモレス
コトゥグPoesaka Moresco Toegoeの第二世代であり、その後1988年に分裂してクロン
チョントゥグ楽団を編成した。アーレントは伝統芸術の保存という理想を抱いていたよう
で、アンドレを含む子供たちによくこう言った。「クロンチョンを金儲けの道具にしては
いけない。クロンチョンを演奏するのは、クロンチョンに生命を与えて生き続けさせるた
めなのだ」。

しかし、古い昔ながらのクロンチョンを昔のスタイルのまま演奏していたのでは、やがて
行き詰まる可能性は大きい。そのうちに、クロンチョンを聞きに来るのは若いころにクロ
ンチョンになじんだ爺さん婆さんだけになり、ポップス音楽で育った若者が見向きもしな
くなって時代から取り残されるのは目に見えている。クロンチョン音楽を伝統文化として
生き残らせるためには、何かが必要だ。父親のやり方をただ真似ていてはいけない。アン
ドレはブレークスルーを真剣に考えるようになった。


かれの子供のころの思い出は、今のクロンチョン楽団のリーダーにそぐわないものだった。
父親にとってクロンチョンは神聖なものだったようだ。小さい子供だったアンドレが父の
楽器に触って音を出していると、父親が来てアンドレの手を引き離し、子供が遊ぶものじ
ゃないと叱った。

毎週一回、楽団メンバーがかれの家に集まり、2〜3時間練習をした。家のテラスで行わ
れる練習を、子供たちは家の中からガラス窓を通して見ることしか許されなかった。休憩
時に供される飲食物は普段のコーヒーでなくてマラガワインanggur malaga、赤クレテッ
タバコkretek merah、ケーキ類kue basahだった。

アンドレの父親にとってクロンチョン音楽は大人の真剣勝負に似た思い入れの対象だった
のかもしれない。大人の真剣勝負の場に小さい子供がウロチョロするのは、精神集中の妨
げになると考えたのだろうか。結果的にアンドレは音楽演奏になじまないまま、ビジネス
の世界にのめり込んで行った。

父親が新しい楽団を編成したのは、TVRIの音楽番組に出演したのが契機になった。そ
のとき、アンドレも他の兄弟たちと一緒に楽団に加わるよう求められた。だが十人兄妹の
6番目であるかれはもう21歳になっており、父親のしつけのために楽器が身近なものに
なっておらず、本人の人生もクロンチョン音楽との関りに乏しいものになっていたのであ
る。音楽でないさまざまなビジネスで辛酸をなめ、また優美な成功をも体験していたかれ
は、今度は父親を手伝うために音楽演奏の分野も手掛けるようになった。

クロンチョン楽団の活動を通して父親との接触が深まり、関係がますます緊密さを増して
行った。父親がライフワークにしているクロンチョンのサバイバルを実現させるために、
父親が努力している理想の実現のために、この自分が手を貸し、後押しするのだ。それが
父親に対して自分が行える最大の親孝行ではないだろうか。


若者の心をクロンチョンに引き寄せなければ、先細りは明らかだ。アンドレは兄弟たちと
共に国内外のロック音楽をクロンチョンに乗せて歌うことに知恵をしぼった。

あるTV番組でオープニングとエンディングの生演奏にクロンチョントゥグが招かれたと
き、かれらはビートルズのオブラディオブラダを演奏して好評を博した。クロンチョンの
持つ幅広い可能性のひとつが証明されたのである。それが新しいクロンチョントゥグの旅
立ちだった。[ 完 ]