「ダンドゥッの系図(2)」(2021年03月08日)

グマランもミナンカバウの楽団がジャカルタに進出してきたのでなく、これはジャカルタ
在住のミナン人が編成した楽団だった。1954年初、ジャカルタ在住の十人近い若者が
メンテンの一軒の家に集まり、故郷の音楽にロックンロールを融合させた音楽をやろうと
いうことに合意したのがグマランの発端だ。かれらはミナン音楽の記念碑的楽団プ~ギブ
ルハティPenghibur Hatiの後継者たらんことを目標にした。

かれらが付けた楽団名のグマランはミナンの説話チンドゥエ・マトCindue Matoに出てく
るキナンタン、ビヌアン、グマランの中から採ったものだ。初代リーダーには、仲間の間
でアンワル・アニフが選ばれた。


当時の世界的なラテン音楽の流行に即して、グマランはラテン曲をレパートリーに採り入
れ、またミナン音楽にラテン調の雰囲気を盛り込んで人気を呼んだ。楽団の力が安定して
きたところで、かれらは次のステップアップとして国営ラジオ局RRIでの出演に挑戦し
た。世の中で名の知られていないセミアマチュアバンドをそのままオンエアーさせてくれ
るようなRRIではない。グマランはそのオーディションに合格し、念願のラジオ出演を
果たした。

そこまで来て、最初のリーダー、アンワル・アニフは9カ月間でリーダーの座を降りるこ
とになった。アリディルが後継したが、しばらくしてアスボン・マジッがグマランに関わ
るようになり、かれがリーダーを交代してこの楽団を音楽史に名が残るものに育て上げた。
グマランは国家宮殿・グドゥンクスニアン・イストラスナヤンなどの栄えあるステージや
大会場で客を集めることのできる首都有数の楽団に成長して行った。

そのようにして新しいイラマムラユはジャカルタで大人気を博し、旧スタイルのイラマム
ラユデリは没落して行ったが、リアウやメダンでは旧スタイルの楽団や歌手が新登場して、
反対に人気が盛り上がった。若手の歌手ヌライニNurainiが人気を集め、またメダンで新
進作曲家リリ・スハイリLily Suhairyが新作を連発し、その中のBunga Tanjungはマレー
シアからシンガポールまで含む広範なエリアで流行し、大ヒットになった。


しかしマラヤ製映画の黄金時代は長続きしなかった。インドネシアの映画制作界がマラヤ
映画の輸入を禁止するよう、政府に圧力をかけたのである。ほぼ同じころにエジプトでナ
セルの王制転覆が起こったため、アラブ系ブタウィ人が大好きだったエジプト製映画も輸
入が止まった。

困ってしまった映画輸入業界はインド製映画に矛先を向けた。インドネシア映画制作界は
それを甘く見た。吹き替えなど行われず、インドネシア語の字幕だけが付けられるのだか
ら、ヒンディ語に堪能なインドネシア人以外はあまり関心を持たないだろう、という考え
がかれらを油断させたようだ。

その当時、ほぼ唯一と言えるほどの大衆娯楽だった映画は、言うまでもなくビッグビジネ
スだった。1960年のマラヤ・インド・米国映画の年間観客動員数は4億5千万人に達
している。その年、全国の映画館数は890あった。ところがオルラ期のインドネシア共
産党が国民の映画鑑賞に共産主義宣伝を持ち込んできた。アメリカ映画はボイコットされ、
中国や社会主義諸国が作ったイデオロギー宣伝映画を上映するよう圧力がかけられたので
ある。1966年には、営業している映画館は350まで減少した。

オルバ期に移行して、映画が国民大衆の娯楽の地位に復帰したが、そのうちにTV放送が
はじまり、映画は斜陽の坂を転げ落ちて行った。1989年の年間観客動員数は3億1千
2百万人に低下している。


1955年にラジ・カプール主演のインド映画アワラが封切られたとき、映画に飢えてい
たひとびとで映画館は埋め尽くされ、テーマ曲アワラフムは大ヒットになった。インドポ
ップソングのビートのきいたリズムは人気を博し、イラマムラユのジャンルにも影響を与
えた。

そのダンドゥッ成熟期に活躍した作曲家兼歌手にふたりの大物がいる。マスハビとムニフ
・バハスアンだ。またフセイン・バワフィもその生涯で2百曲ほどの作品を発表した。ス
ロジャSerojaはその中のひとつだ。[ 続く ]