「ダンドゥッの系図(3)」(2021年03月09日)

かれらはインド映画のヒット曲にインドネシア語の歌詞を付け、インドネシア人が誰でも
歌えるようにした。特にマスハビはイラマムラユにインド映画のヒット曲が持っているビ
ートを持ち込んで好評を博した。それが後に出現するダンドゥッの特徴をなすインド曲ビ
ートとの融合の確立に大きく貢献したことは疑いがない。

1968年にマスハビが没してから、オマ・イラマ、ムッシン・アラタスMuchsin Alatas、
エルフィ・スカエシたちがインドポップス風のビートに彩られたイラマムラユをひっさげ
て台頭してきた。その音楽がダンドゥッと呼ばれ、1970年代に一世を風靡するように
なる。ダンドゥッという言葉は、インド歌謡曲のビートを擬音化した言葉だったと言われ
ている。


1908年スラバヤ生まれのシェッ・アルバルSyekh Albarがアラブ音楽ガンブスgambus
を携えてジャカルタに進出し、アラブ系住民を中心にして大好評を得た。かれのレコード
は中東でもてはやされ、エジプトの伝説的ガンブス歌手アブドゥル・ワハブAbdul Wahab
に引けを取らない大歌手であるとさえ評された。シェッ・アルバルはインドネシアに昔か
らあったハドラマウトスタイルの伝統を持つガンブスをエジプトスタイルに変えることに
貢献した。

1920年代にはシェッ・アルバル率いるガンブス楽団はよくラジオ放送に出演し、かれ
の自作曲が電波に乗った。シェッ・アルバルの後を追って、ハサン・アライドルスHasan 
Alaydrus率いるアルワタンAl-Wathanやムッタル・ルッフィMuchtar Lutfi率いるアルワル
ダAl-Wardahなどが産声を上げた。

アルバルの妻のファドルンFadlunは1950年代に名を挙げた著名映画スターであり、映
画プロデューサーのジャマルディン・マリッと結婚して娘を生んだ。その娘がカメリア・
マリッCamelia Malikだ。一方、シェッ・アルバルとの間で生まれた息子のアッマッ・ア
ルバルAhmad Albarはロック音楽の世界に飛び出して行った。このガンブスというアラブ
音楽のジャンルがダンドゥッの祖先であるという説もある。


ガンブスgambusまたはqanbusはイエーメンの撥弦楽器であり、ウードに似ている。7世紀
以来、中東の商人がヌサンタラの地にやってきたとき、かれらは交易物産だけでなく、自
分たちの慰安のために楽器をも持ってきた。その文化交流はスマトラ島海岸部にアラブ音
楽の一端を植え付けた。商人たちは併せてイスラム布教を行ったし、また、ヌサンタラに
住み着いて原住民をイスラム化しようとする布教者もやってきた。かれらが宗教の傍らで
音楽をも地元民に教えたとき、地元民の音楽世界にアラブ音楽がしみこんで行った。地元
民が奏でるローカル音楽の中に、ガンブスや他のアラブ音楽用の楽器が使われることもあ
ったのではあるまいか。古いムラユ音楽がそのリズムや旋律の影響を受けたのは自然の成
り行きだった言えるだろう。

1869年にスエズ運河が開通してエジプトやイエーメンにその航路の寄港地ができると、
ヨーロッパとアジアを結ぶ蒸気船に乗る機会がエジプト人やイエーメン人に大きく開かれ
た。当時ハドラマウトHadramautと呼ばれていた南イエーメンから、大勢のアラブ人がヌ
サンタラに移住した。

ハドラマウトというのは、19世紀後半から20世紀初期にかけてハドラミHadhramiと呼
ばれるアラブ系種族が支配した、バーレーン・カタールからアブダビ・ドゥバイ・オマー
ンを回ってアラブ半島南海岸部のアデンに至る広大な地域を指している。その根拠地は現
在の南イエーメンにあった。諸説あるハドラマウトの語源の中にhadir-mautというおどろ
おどろしいものがあるのは面白い。

1870年から1888年にかけて、たくさんのアラブ人がオランダの蒸気船に乗ってヌ
サンタラにやってきた。やってきたのは男ばかりであり、プリブミの女を妻にして家庭を
持ったから、アラブ系インドネシア人というのはまず間違いなくプリブミとの混血者だ。

その点では華人プラナカンとそっくりの状況になっており、インドネシア人はかれらをア
ラブプラナカンperanakan Arabと呼ぶ。プラナカンという言葉は華人系原住民子孫だけを
指しているのではない。[ 続く ]