「ダンドゥッの系図(4)」(2021年03月10日)

かれらハドラミはヌサンタラのあちこちの都市にアラブ村を作って居住した。周辺のプリ
ブミ社会がイスラムコミュニティなのだから、アラブコミュニティはプリブミ社会に容易
に溶け込み、華人コミュニティであるプチナンpecinanが持っている周辺プリブミ社会か
ら浮き上がった印象とはまるで正反対の趣がアラブ村に付着している。

ジャカルタのプコジャンPekojanやクルクッKrukut、ボゴールのンパンEmpang、スラバヤ
のアンプルAmpel、ソロのパサルクリウォンPasar Kliwong、グルシッのガプラGapura、モ
ジョクルトのカウマンKauman、チルボンのカウマン、ヨグヤカルタのカウマン、マランの
ジャガランJagalan、プロボリンゴのディポヌゴロDiponegoro、ボンドウォソやバンジャ
ルマシンにはその名前ずばりのKampung Arabなどが顕著なカンプンアラブになった。それ
ばかりか、バンダアチェ、パレンバン、シグリ、メダン、ランプン、マカッサル、ゴロン
タロ、アンボン、マタラム、アンペナン、スンバワ、ドンプ、ビマ、クパン、果てはパプ
アにまでアラブ村が存在している。


本来人類学的には同種のアラブ人であっても、ハドラミは文化的差異によって他のアラブ
人から区別され、同じハドラミも信仰・信条・家系などによってアラウィとカビリに区別
されることがある。

一説では、ハドラミは本元の南イエーメンにあまり残っておらず、ヌサンタラに移住して
子孫繁栄を得た移住組の方が量的に本元を圧倒しているという話だ。アニス・バスウェダ
ン現ジャカルタ都知事の祖父アブドゥラッマン・バスウェダンは1908年スラバヤ生ま
れのハドラミであり、インドネシア独立革命期に活躍したひとりだ。既述のシェッ・アル
バルもスラバヤ生まれのハドラミである。

オランダ東インド植民地政庁の顧問で、ヌサンタラのアラブ事情を詳しく研究し、その名
声をスノーク・フルフロニェSnouck Hurgronjeと二分したファン・デン・ベルフvan den 
Bergによれば、ハドラミの移住はまずインドのマラバール海岸に向かい、その後ヌサンタ
ラにやってきた。最初はアチェを目指し、そこからパレンバンやポンティアナッに流れた。
1819年にシンガポールが建設され、シンガポールがアチェの地位を奪って発展するよ
うになると、移住者はアチェをやめてシンガポールを中継地にし、そして移住者の流れも
ジャワに向かうようになった。東部インドネシア地方に入るようになるのは、1870年
代以降だったそうだ。


アラブ人移住者がプリブミ女性を妻にして子供を持つと、父方のアラブ系親類縁者と母方
のプリブミ系親類縁者の文化的融合が起こることも稀でなかった。父方に親類縁者がいな
ければ、父の文化をその子供が母方の親類縁者に媒介した。こうしてプリブミの中に、ア
ラブ音楽の演奏になじむ人間もたくさん出るようになる。

ガンブスをフィーチャーし、バイオリンやハルモニウムを加え、そして多彩な打楽器でリ
ズムを盛り上げる楽団がガンブス楽団、略して単にガンブスとも呼ばれた。結婚パーティ
や割礼の祝いはしばしばガンブス楽団が活躍する舞台になった。楽団はぶ厚いペルシャ絨
毯に座り込んで演奏し、その前で踊り手がザピンの舞を踊った。

1940年代から60年代まで、ガンブス楽団はジャカルタやスラバヤだけでなく、マカ
ッサル、パレンバン、バンジャルマシン、ゴロンタロなど各地のアラブ村に現れた。しか
も、楽団員にはアラブの血の混じっていない純血プリブミが多数含まれていた。ガンブス
音楽がプリブミの間に深く根を張ったことがその事実から分かる。

その時期にエジプトスタイルの音楽がガンブス音楽界に新しい潮流を作り、ハドラマウト
風伝統タイプとの二分が起こった。シェッ・アルバルはエジプトスタイルの源流のあたり
にいる。[ 続く ]