「ダンドゥッの系図(6)」(2021年03月15日)

ブタウィ史家のJJリザル史はダンドゥッの歴史について、次のように説いている。冒頭
のアルウィ・シャハブ氏の論説と重複する部分もあるが、ご容赦願いたい。

ダンドゥッの社会的感情やそのためのツールは起源をオランダ植民地時代当初までさかの
ぼることができる、とウィリアム・H・フレデリックはロマ・イラマとダンドゥッスタイ
ルと題する論説に書いている。バタヴィア周辺の農園主であるオランダ人トアンが出歩く
とき、その行列に華やかさを添えるためにトアンが奴隷たちに作らせた合奏団タンジドー
ルtanjidorがその発端になったのだと言う。そこではインドネシアとアラブと西洋の楽器
がごちゃ混ぜに使われて音楽を奏でた。

19世紀にはガンバンクロモンと呼ばれる中華風アンサンブル、そして都市部で人気を呼
んだスタンブルやトニールの中で使われたクロンチョンも影響をもたらした。1940年
代には、古いハーモニースタイルに西洋音楽の新機軸が加えられて、イラマムラユモダン
化の実験がさまざまに試みられた。サンバやルンバのリズムも取り込まれた。

1950年代になると、独立インドネシアにとってのパンインドネシア主義のよりどころ
を民族オリジナル文化に求めようとする政治情勢に押されて、パダンやメダンなどジャカ
ルタから遠く離れたへき地で発展した伝統的ムラユ楽団の世界にモダンクロンチョンミュ
ージシャンたちが入って行った。その音楽がムラユデリと呼ばれた。


1953年にイギリス領マラヤの俳優ラムリが主演するジュウィタDjuwitaと題する映画
がインドネシアで大ヒットし、かれのヘアスタイルばかりか映画で歌われたムラユデリ曲
も大いに流行した。

それにヒントを得て1959年にサイッ・エフェンディがミュージカル映画スロジャを作
り、主演して自作の曲を唄った。こうしてかれがインドネシア側の巨匠にのし上がった。
アブドゥル・ハリッ、フセイン・バワフィ、ハスナ・タハルたち同時期の自作自演歌手た
ちと共に一世を風靡することになる。

その後を追って登場したエリヤ・カダムがBoneka dari Indiaの大ヒットを飛ばし、当時
ダンドゥッという言葉はまだ使われていなかったにも関わらず、それをダンドゥッの起源
に奉る者も少なくない。

その大ヒットは作曲者フセイン・バワフィの絶妙な曲想とアレンジの成果だった。オーケ
ストレーションにインドネシア・アラブ・インドのグンダンgendangと笛・シタールを使
ってインドポップスのビートの効いたリズムを特徴的に奏でさせたことが大衆に大いに受
けた。当時、インド映画の中で流れるインドポップスはインドネシア大衆の人気の的にな
っており、それがイラマムラユと融合したことで絶大な人気を博したのである。

ジャカルタ郷土史家リッワン・サイディRidwan Saidi氏が1919年生まれのフセイン・
バワフィをジャカルタムラユ音楽の創始者と評するのも、そこに原因があるのかもしれな
い。1950年代のジャカルタで起こったムラユ音楽の種々の革新が、それまでもっと北
の地方の、言い換えるならジャワ島外の、音楽だったイラマムラユの中心地をジャカルタ
に移動させることになったのである。


50年代には、ジャカルタに国民級の有力ムラユ楽団が勢ぞろいしていた。ウマル・ファ
ウジ・アスラン率いるシナールメダンは歌手アブディラ・ハリスAbdillah Harrisを擁し
てKudaku Lariをヒットさせ、ハスナ・タハルはChayal Penyair、ムニフ・バハスアンは
デビュー曲Ditinggal Kekasihを打ち上げた。

フセイン・アイディッ率いるクナ~ガンはヒット曲Aiga、アブドゥル・ハリッ率いるブキ
ッシグンタンは歌手スハイミを擁してBurung Nuri、Halimun Malam、Cinta Sekejapなど
のヒットを放ち、サイッ・エフェンディがリーダーのイラマアグンはKhayalan Suciとい
った代表曲をものした。[ 続く ]