「ダンドゥッの系図(終)」(2021年03月16日) それらのさまざまなムラユ楽団が市場を賑わす中で、1930年代以来数百の作品を世に 送ったフセイン・バワフィ率いるチャンドラレラは歌手にマスハビやムニフ・バハスアン を抱えて、ジャカルタの大衆娯楽界にイラマムラユのゆるぎない一角を築き上げ、町内に 必ずひとつはイラマムラユの音楽グループがあるという姿を実現させた。 ジャカルタにムラユ音楽を興隆させてジャカルタムラユ音楽というジャンルを築いたかれ の功績は筆舌につくしがたいものがある。ジャカルタ式ムラユ音楽にはチャルテやタブラ と呼ばれる独特の打楽器奏法があって、デリやマラヤとは異なる特徴を持っている。また、 デリやマラヤのムラユ楽団はガムランのゴンgongを常に備えているが、ジャカルタのムラ ユ楽団はゴンを使わない。 ダンドゥッの起源を語るとき、われわれはそのジャカルタムラユ音楽に特に注目しなけれ ばならないのである。イラマムラユデリがたどった変遷の歴史が行き着いたダンドゥッは、 ジャカルタで進展した質的変化に触れなければ正確なストーリーが描かれないのだ。 加えて、逆の見解が述べられているマクロ的要素も存在している。60年代に入って、西 洋のロック音楽が都市部で興隆したためにムラユ音楽が片隅に追いやられたというのは当 を得ていない。政府は西洋音楽の国民社会への侵入に対抗するために民族性の高い音楽を 求め、西洋大衆音楽を否定しようとした。その政治の指向が一部国民ミュージシャンをイ ラマムラユに向かわせたのである。 西洋音楽の代替となる大衆音楽というイデオロギーがかった政治的要求に染まっていた国 民社会を、それはかなりのレベルで満足させることができた。国民指導者は~ガッ~ギッ~ ゴッ音楽と呼ばれるインドネシア民族の個性と倫理観を損なう西洋大衆音楽の排斥を目指 し、しかしただ排斥し撲滅するだけでは収まらない空白を埋めるために、民族性の香り豊 かな音楽を振興させようとしたのだ。 1965年にG30S事件が起こり、スカルノとその実験的政策のすべてが終焉したあと、 西洋音楽輸入禁止政策が生んだ空白を満たそうとするかのように、怒涛のように流れ込ん できた西洋のロック・カントリー・ポップス音楽がムラユ音楽の上にのしかかってきたの である。ムラユ音楽が地べたに這いつくばったのはその時期なのだ。 スハルトのオルバ政府が経済の門戸を西側世界に開こうと準備しているときに、イギリス のロック音楽への扉がいち早く開かれた。その冷遇の時代を超えた1970年代に、新時 代を画する新ジャンルの音楽としてダンドゥッが勃興してきた。中央ジャカルタ市トゥブ ッTebetを故郷にするひとりの若者ロマ・イラマRhoma Iramaがその勃興の中心にいた。ロ マは楽団を完全エレキ化し、演奏の舞台をシアター風なものにし、実生活に即した活力を 感じさせる歌詞を唄った。かれはデビュー当初の名前をオマ・イラマにしていたが、後に ロマに改名した。 更に重要なポイントとして、ロマの楽団はムラユ楽団を称さず、ソネタグループSoneta Groupという名称にした。当時の実業界でコングロマリットが自社を呼ぶときに使ったシ ナールグループやカルティニグループのような言葉を取り上げたということだ。強い市場 オリエンテーションを持つ実業界のムードが、ロマのバンドに付着した。 いかにかれらが、ビジネス時代への変化にぴったりとフォローし、マスメディア時代の情 報技術に即した意識を涵養していたかということがそこに示されているようだ。その一方 で、ロマ・イラマのダンドゥッとイスラム教のきわめて複雑な関係も、1970年代に深 まって行った貧富格差を含む社会問題の実態がそれを方向付ける背景になった。ダンドゥ ッは1970年代の時代を画するフィノメナルな社会現象だったのである。[ 完 ]