「1970年代の青春革命(3)」(2021年03月19日)

中古レコード盤のマーケットはスラバヤ通りだった。スラバヤ通りでのレコード盤ハンテ
ィングで最高の人気を得た店のオーナーがシララヒだった。タパヌリ人のシララヒという
人物は音楽が分かっており、しかも商品はよい物を揃えることに努めていたために、その
店の古物が他の店より高めだったにも関わらず、値段の苦情をする客はいなかった。

シララヒの店がジャカルタであまりにも有名になったことから、ハードロックバンドのデ
ィ―プパープルがジャカルタ公演を行ったときにギタリストのトミー・ボーリンがそこを
訪れている。

ディ―プパープルの垂れ幕を付けた黒のベンツが店の表に止まったときには驚いた、とシ
ララヒは当時を回想して物語った。「そのとき狭い売場にディ―プパープルの最新アルバ
ムCome Taste The Bandをディスプレーしてあった。そのジャケットに目を止めたボーリ
ンはただにっこりしただけだったがね。」


1970年代には、ラジオ放送局も雨後のタケノコのように出現した。長い竹の先にアン
テナを取り付けたところも本当にあった。バンドンで人気が一番高かった放送局はボンケ
ンBonkenkで、これはBonkok dan Kerempengの略語だそうだ。ラジオオズOzなどでも、流
される音楽はロックがほとんどで、バンド青年が遊びに来てごろごろしていると、スタジ
オ内に誘われてDJとの会話がオンエアーされることもしばしばだった。

ジャカルタにもTU 47、Mr.Pleasant、Pramborsその他のユニークな名前を持った私設ラジ
オ局がたくさん出現したが、たいていは公式認可なしに運営されていた。プランバナン通
り、ムンドゥッ通り、ボロブドゥル通りに住む若者たちがメンテン地区近辺で始めたラジ
オプランボースが公式の民間商業放送認可を得たのは1971年だった。時代の青年の志
向を先取りして先鞭をつける存在がかれらだという見方が社会に生じた。

それらのラジオ局では、ローリングストーンズ、ピンクフロイド、ブラックサバス、レッ
ドツェッペリンなどの曲が流され、若者DJが青年聴衆にメッセージを送る形で放送が行
われて青年層に親しまれた。ブルースストリームラインと名付けられたブルース特集番組
が定期的に放送され、人気の高いブルース音楽が続けざまに流されて人気を博した。


若者たちに人気のハングアウトの場所はどこだったのか?ブロッケムBlok Mのロティバカ
ルエディを挙げる者もいる。プチェノ~ガンPecenongan通りのカキリマ街も食事しながら
集う場所だった。タナアバンのタナムルや大統領宮殿向かいのミニディスコなどの娯楽ス
ポットにも、かれらはよく集まって来た。

バンドンで時代の魁を自任する青年たちがたむろしたのはムルデカ通りやブンス通りだっ
た。ヘガルマナHegar ManahのティジTizi'sレストランのメニューにかれらは感動した。
クリームチキンスープとシャスリックに舌鼓を打ち、ドラフトビールに酔った。

ジャカルタでアリ・サディキン都知事が企画させたMalam Muda Mudiにはポップ、ダンド
ゥッ、ロックのバンドが勢ぞろいして会場を盛り上げた。タムリン通りの北端ムルデカ広
場の西南角から南端ホテルインドネシア前ロータリーに至る歩道沿いにたくさんのステー
ジが組まれて、夜を徹して演奏と歌が続けられ、大勢の都民老若男女が集まって来て楽し
んだ。

娯楽がまだありふれたものでなかった時代に無料の娯楽が楽しめるとあっては、聴衆が集
まらないはずがなかった。青年男女の夜だけでなく、1973年8月16日に南ジャカル
タのラグナンRagunanで催されたSummer 28でも、会場は聴衆であふれた。サマー28とは
Suasana Menjelang Merdeka ke-28の略語であり、1969年にアメリカで行われたウッ
ドストックの向こうを張った大音楽祭典ジャカルタ版という企画がそれだったのである。

この催しは昼に開始されて夜明け前まで行われ、10万人の聴衆を前にしてKoes Plus, 
The Disc, The Mercy's, Panbers, Bimbo, Gembell's, Pretty Sisters, The Rollies, 
Gang of Harry Roesli, Broery Marantika, The Pro's, Idris Sardi, Remy Silado, Fly 
Baits, Trio Los Morenos, Young Gypsy, God Blessら当世第一級のミュージシャンたち
が華麗なステージを繰り広げた。[ 続く ]