「バタヴィアの20年代(1)」(2021年03月23日)

1920年代、ローリングトゥエンティーズが世界を襲った。世界大戦が終わり、ヨーロ
ッパとシンガポール・マラヤ・上海、そしてバタヴィアを結ぶ通商路が復興してビジネス
が往時の活況を取り戻し、経済が回復して明るさの戻って来た新時代の息吹が世界中に新
たな価値観とライフスタイルをもたらしたために、ひとびとは新しい文化に酔いしれた。

新文化の波はもちろんバタヴィアをも襲った。アジアにあるヨーロッパの地位をシンガポ
ールと分け合っていたバタヴィアだから、襲われない方がおかしいと言わざるを得ないだ
ろう。

蘭領東インド自身も、長期にわたって行われた大規模なアチェ戦争が1904年に終わり
を告げて、最後までオランダの支配を受けないまま自立していたアチェスルタン国が屈服
し、残るは大勢に影響のない民衆ゲリラ掃討戦に限定されるだけになった。そのようにし
てヌサンタラ全域の政治支配体制がパックスネーデルランディカの旗のもとに確立された
あとのことでもあり、ローリングトゥエンティーズの受け皿となるべき明るい時代の素地
はもっと以前からととのえられていたと言えよう。

ではあっても、ヨーロッパの飛び地であるバタヴィアがヨーロッパの戦雲の影響を受けな
かったはずもなく、直接戦火を浴びなかったとはいえ、その間うっとうしい時期を余儀な
くされたのは言うまでもない。その戦雲が晴れるや、ロアーの轟きはバタヴィアを強力に
揺さぶった。


アメリカが西洋世界の大国として頭角を現し始めたとき、アメリカ文化が新たな潮流とな
ってヨーロッパに流れ込んできた。バタヴィアでも、それまで女性ファッションの動向を
決めていたパリモードブティックから娘たちの目と足が遠のき、輸入されたアメリカの映
画やファッション雑誌が新しい崇拝の殿堂に祀り上げられた。映画を見ただけで、アメリ
カ女優が来ていた衣装をそっくりの形に縫い上げることのできる仕立屋が人気を集め、娘
たちはそんな仕立屋を探してガウンを注文した。バタヴィアなど東インドの諸都市では特
に、熱帯という環境により適したニューファッションが好まれたようだ。

女性ばかりか、男性もアメリカのファッションに深く傾倒した。地方の農園主たちはカウ
ボーイまがいの姿で馬にまたがり、農園を巡回するようになった。

アメリカに生まれたジャズ音楽も世界を震撼させた。バタヴィアでも、ジャズに惹かれた
若者たちがバンドを組み、アメリカのミュージシャンたちを模倣した。アメリカの明るく
躍動的な音楽に魅了されたバタヴィアっ子は音楽に合わせてダンスに興じ、個人宅でのパ
ーティやクラブ・ホテル・レストランなどでバンドが奏でる新しい音楽に合わせて新しい
ダンスを踊りまくった。

その社交としての新しいライフスタイルをわがものとし、流行におくれて恥をかいてはな
らないと考える若者たちの間では、夕食後だれかの家に集まっておしゃべりに花を咲かせ
ている時、中のひとりがラジオをつけてラジオ放送局NIROMが流すアメリカ音楽をち
ょっと大きめのボリュームにしてから、みんなを誘って踊り出す光景が普通のものになっ
ていった。

青年団体や高校・大学あるいは地域社会が開くパーティにアメリカ風の音楽とダンスは付
き物になり、サウンドシステムがまだなかったその時代に生演奏バンドは必須のものにな
った。必然的に、ジャズをやる若者グループが草の根レベルにまで広がっていったのであ
る。[ 続く ]