「バタヴィアの20年代(2)」(2021年03月24日)

バタヴィアのIndo(欧亜混血者)社会では、カンプンのプリブミ青少年の仲間になって裸
足で遊び回り、夜中までクロンチョンで青春を謳歌している息子に、「クロンチョンなど
やめてしまえ。あんなプリブミの音楽よりもジャズをやれ。」と父親が叱ることも起こっ
たそうだ。息子がプリブミ化するのを恐れ、人生の場を西洋人社会に向けさせようとした
父親の思惑は歴然だが、そのころジャズはプリブミのカンプンと無縁のものであり、西洋
人社会の専有物であったことをそれが物語っている。
それまで高校や大学で管弦楽団に入っていた16〜18歳くらいの若者たちも、ジャズの
躍動感から無縁でいられなかった。あちこちで、クラシック管弦楽団からジャズオーケス
トラへの変身が起こった。かれらのレパートリーはシンフォニーやコンチェルトからBlue 
Moon、Tiger Rag、Sweet Georgia Brown、St.Louis Bluesなどに変わった。言うまでもな
く、かれらも新たに生まれたライブ音楽市場に乗り出して行った。住宅地区などで開かれ
るパーティがかれらの稼ぎ場所になった。

バタヴィアの大衆音楽界にジャズが新たな革命を起こしてからも、演奏家たちが手にする
音楽素材はほぼレコード盤に限られていた。本場のジャズを体得したミュージシャンの演
奏に触れる機会は貴重なものだった。米国からバタヴィアは地理的にあまりにも離れすぎ
ている。だが、アジアに米国のコロニーがあったことを忘れてはならない。
ミラネーゼがフィリピンから招いたジャズバンドがはじめてバタヴィアで本場のジャズを
聞かせたのは1928年だった。そのメンバーの中には、バタヴィアに定住する者もあっ
た。
バタヴィアで名を挙げたジャズグループの中には、チョー・トマソワTjoh Tomasowa、ヤ
コブ・シガラキJacob Sigarlaki、ウチェ・ブラー"Oetje" Burer、ブルール・ファン・デ
ン・ベルフ"Broer" van den Berg、ハリー・ブラムHarry Bramたちから成るSugar Brown 
Babies、そしてチャーリー・オフェルベーク・ブルムCharlie Overbeek Bloem、ヴィム・
バウムガーテンWim Baumgarten、ヴィム・デルシャントWim Dersjant、レオ・エリアLeo 
EliaらをメンバーにするDe Musketers of Swingなどがあった。ヤコブ・シガラキは別の
バンドDe Melody Makersにも加わった。ちなみにチョーとはジョージGeorgeの愛称であっ
て、中国人名ではない。
またヴェルテフレーデンの社交場コンコルディアConcordiaにしばしば出演したOriginal 
Jazz Bandからも、モー・アルフMoh Aroef、ブルール・フォヘルサンBroer Vogelsang、
フィック・シーハースFik Siegers、エディ・カルセボムEddy Karssebom、フレディ・ブ
レベッカーFreddy Boerebekker、テオ・カルセボムTheo Karssebom、ヤン・デ・フリース
Jan de Vries、カレル・カルセボムKarel Karssebomら優れたジャズプレーヤーが輩出し
た。
NIROMもジャズの音楽番組を多彩に組み、スタジオから生バンドの演奏を放送して多
くの住民に喜ばれた。20年代から30年代にかけてのバタヴィアはジャズの彩りに満ち
溢れた都市だったと言えよう。
Sugar Brown BabiesやThe Silver Kingなどの人気バンドはレストランやホテルネーデル
ランデンで演奏し、ラジオ放送局NIROMに出演し、日曜日の昼には水泳プールで演奏
した。その時代、白人社会向けに大きい水泳プールがマンガライやチキニに設けられてあ
った。マンガライのプールは現在パサラヤショッピングモールになっている。チキニはT
IMの南側に作られ、今でも一般開放されている。
プールでのバンド演奏の開始は午前11時からで、12時半までのショータイムめがけて
白人やIndoの若者たちがプールに集まってきた。かれらはウイスキーや洋酒とソーダ水を
混ぜたスプリチェスsplitjesを飲み、水泳し、ダンスに興じた。中には物売を呼んでバナ
ナの葉に包まれた食べ物を注文する者もいた。14時にプールは閉まり、みんなは昼食の
ために帰宅した。[ 続く ]