「ドイツ人ルンピウス(後)」(2021年04月08日)

そして大型の津波が陸地めがけて襲い掛かって来た。インドネシア史上最大と見られてい
るこの地震で2千2百人超が死亡したと言われている。ルンピウスが書き残した実体験談
によれば、地震の揺れはきわめて強く、まるでこの世の終わりが到来したと思わせるほど
のものだったそうだ。

丘が崩れ、土地が割れた。だれもが立っていられずに地面に倒れ、ヴィクトリア要塞の鐘
が、だれも打ち鳴らさないというのに、一斉に鳴り始めた。ルンピウスのその記述が、イ
ンドネシアで起こった大型天災の最古の記録になっている。

三つ目の災いは1687年1月11日に起こったアンボンの大火災だった。ルンピウスの
家も燃え上がり、かれが秘蔵していた多数の作品の多くが失われた。再びバタヴィアはル
ンピウスの汗と歳月の結晶である作品の復元のために、イラストレータと書記を派遣して
来た。


1690年、ルンピウスの大図鑑が完成し、バタヴィアに送られた。受取ったヨハネス・
カンパウスJohannes Camphuys15代総督はそのコピーを作らせた。インドネシア語ウィ
キには、コピーが出来上がるまでに、なんと7年の歳月が流れ去り、1697年にVOC
本社に送られたと書かれている。一方英語ウィキでは、すぐにオランダに送られたが運ん
だ船が襲撃されて沈没し、カンパウス総督がコピーを作ってあったのが幸いして1696
年にVOC本社に送られた、となっている。

ところが、取締役会ヒーレン17は協議の末に否定的な結論を出したのだ。スパイスアイ
ランドにあるスパイス類やその他の有用植物の情報が世界中に筒抜けになれば、世界中の
盗人どもが照準を明確に据えて集まって来るに決まっている。オランダの国益のために、
この情報は社外秘にしなければならない。こうしてルンピウスが生涯を賭けて作った大作
は、VOC本社倉庫の奥深くにしまいこまれてしまった。

1702年、自分のライフワークがどうなっているのかはっきり分からないまま、作者の
ルンピウスは世を去った。アンボンを愛したこの人物の墓がどこにあるのか、コンパス紙
特集調査班が現地を訪れて取材したときにも、はっきりした場所を知っている人間を見つ
けることができなかった。

アンボンのパティムラ大学研究院長によれば、ルンピウスの名を聞いたことのある地元民
はたくさんいるが、かれが何をしたのかという詳細まで知っている者は少ないそうだ。
「ルンピウスの研究をベースにして、それが3百年後の今、どのように変容したのかとい
うことを調べるのは興味深いことだが、学生の中にそのような観点を持つ者が出て来ない
のは、ルンピウスの業績が十分に認識されていないことを示しているように思われる。」

さしずめルンピウスは、郷土史に書かれない世界の偉人ということになるのだろう。だが
偉人の定義を誤って、「どんな駄人もだれかの偉人」という定理に走ってしまえば偉人列
伝は世界人名録になってしまうから、不用意に偉人という言葉で人間を形容しないほうが
良いのかもしれない。


VOC本社は1704年にアンボイナ植物誌の社外秘を解除したものの、出版社が見つか
らないまま社会への公開は延び延びになり、1741年になってやっと6分冊の大図鑑が
ヨーロッパの学術界に驚きで迎えられたのである。

大図鑑の中に登場する白蘭の名前がFlos Suzannaeとなっていて、われわれにロマンチシ
ズムを感じさせてくれる。現在の学名はPecteilis susannaeだ。かれは愛する妻にそのも
っとも美しい花を捧げたのだ。スザンナは純血アンボン娘でなくて、華人系の娘だったと
いう説もある。

息子のパウル・アウグストPaul Augustも父親を助けてたくさんのイラストを描いた。ル
ンピウスの肖像画を描いたのもかれだそうだ。父親の没後、かれはVOC社員になり、ア
ンボイナ担当商務員の職に就いた。

VOCはルンピウスのために記念碑を建立したが、その下に黄金が隠されていると考えた
イギリス人によって破壊された。1824年にファン・デル・カペレン42代総督が再建
したものの、第二次大戦の爆撃でふたたび破壊されてしまった。ルンピウスの不運は延々
と継続している。[ 完 ]