「イギリス人ウォレス(1)」(2021年04月09日)

進化論という言葉を聞くと、たいていのひとはダーウィンCharles Robert Darwinの名前
を連想するように条件づけられてきた。おまけに進化論を提唱したり、発表したというよ
うな、あたかもかれが発見者であるような印象を与える書き方が使われているために、学
校生徒はそういう印象に呑まれてしまう結果がもたらされているようにわたしには思われ
る。

進化論というものは古代ギリシャから連綿と人類史の中に培われて来たものであり、ダー
ウィンが見つけ出したものでは決してない。ダーウィンは進化論の方向性をより真理に近
いものに向けさせた功績において賞賛されるべきであろう。かれが進化論そのものをどう
こうしたと言うのは言い過ぎではあるまいか。

更に付け加えるなら、ダーウィンの名前を一躍不朽のものにした歴史的大著『種の起源』
の核をなす自然淘汰あるいは自然選択が生物進化の鍵をにぎる仕組みであるという論証も、
同時代の生物学者ウォレスAlfred Russel Wallaceの理論に大きい影響を受けて成立した
ものであるという評価を下すひとびともいる。

特に、インドネシアのひとびとはウォレスの方により深い親しみを抱いているようだ。ガ
ラパゴス諸島を調査研究の主舞台にしてヌサンタラの土を一度も踏まなかったダーウィン
よりも、ヌサンタラを広範に渡渉してさまざまな原住民の暮らし・地形・事物・風物を書
き残し、当時のヌサンタラの様子を世界中に知らせたウォレスの方にインドネシア人が親
しみを感じるのは当然のことではあるまいか。


1809年2月、イギリスのシュロップシャ州シュレイスブリでダーウィンが生まれた。
父親はかれを牧師にしようとしてケンブリッジ大学クライストカレッジで学ばせたが、か
れの興味は生物学に傾倒して行ったようだ。

1831年にダーウィンは大学の恩師の推挙で測量船ビーグル号の世界周航に参加するこ
とになる。ビーグル号がプリマスを出港したのは1831年12月27日だった。南米を
回ってガラパゴス諸島に達したのは1835年9月15日で、ビーグル号がそこを後にし
たのは同年10月20日だったから、およそひと月間そこにいたことになる。

そこからの帰途は速く、オーストラリアのシドニーが36年1月、それからココス島経由
でインド洋を横断し、ケープタウンには同年5月、そしてフォルマス帰着は36年10月
だった。

ダーウィンが神学を学んでいたころ、生物界の頂点に神がおり、生物界はすべてが神の創
造した姿でこの世界に出現したものであって、美醜すら神の思し召しであるという思想を
ダーウィンは信じていたそうだ。それを打ち壊す役割を自分が果たすようになるとは、思
いもよらなかったのではあるまいか。

ダーウィンが試行錯誤しつつ生物進化のメカニズム解明に新説を投げかけようと研究にい
そしんでいたころ、オランダ領東インドで調査研究を行っているイギリス人学者から20
ページの論文が送られて来た。差出人はウォレスで、学術界で旧知の間柄であり、生物進
化に関する見解に共通性があったために、お互いに興味を抱きあっていた。

ウォレスはダーウィンを通してその論文が学会に提出されることを望んでいた。ダーウィ
ンはもちろんウォレスの希望を満たしたのだが、かれはウォレスの論文を読んで打ちのめ
され、一時は自分が書きかけの論文を破り捨てようとまで考えたという話もある。ウォレ
スが組み立てた仮説がダーウィンのロジックの一歩先を行っていたということなのだろう
か。

ふたりは1858年に共同発表を行い、ダーウィンの名前を世界史に遺るものにした著作
『種の起源』は1859年11月24日に出版された。[ 続く ]