「8人のトラ(1)」(2021年04月09日)

かつてミナンカバウMinangkabauの地にパガルユンPagaruyung王国が栄えた。現在パガル
ユンという地名は村の名称として残っている。そこは西スマトラの州都パダンPadangの北
北東に位置しており、直線距離なら60キロ足らずだが中間をクリンチセブラッKerinci 
Seblat山系の北端が横切っているため、麓を大きく迂回しなければ行けない。現在のパガ
ルユン村はタナダタルTanah Datar県タンジュンアメTanjuang Ameh郡パガルユン部落連合
という行政地域名称にその名をとどめている。

部落連合と書いたのは村の語感と区別するためである。現代インドネシアにおける地域行
政単位としてのそれは村と同格であるものの、現地語でナガリnagariと称される制度はひ
とつの地域にある部落が連合して一個の地域行政単位を形成したのがその由来であり、村
の語が持っているトップダウンのニュアンスはナガリに薄い。域内の部落が連合してひと
つのナガリを形成するというボトムアップ意識はきわめて自治的であって、封建文化色の
薄さを感じさせるものだ。ミナン人はたいてい、この話をすると喜ぶ。

更にそのナガリが連合してルハッluhakになり、より大規模な自治領域が作られた。パガ
ルユン王国が誕生する前は、ルハッやルハッに属さないナガリが連合して統治行政組織を
作っていたと考えられており、王国形態への移行は元々形式的なものだったという見解も
出されている。しかし王国に変化すれば、民の意識も変化して当然だろう。

ナガリという言葉はインド由来の印象がたいへんに強い。インドでナガリそのものが地名
になっているほかに、nagar, nagaraなどの町や邦を意味する言葉からdevanagariという
文字の種類の名称にも使われていて、地域行政区画の名称としてミナンカバウで使われて
いるこのナガリが古代ミナンカバウの地に南インドからの大規模な移民が行われた可能性
を物語る傍証にもなっている。


高原の町バトゥサンカルBatusangkarから旧街道を南東に向かえばパガルユン王国の壮大
な宮殿イスタノバサパガルユンIstano Basa Pagaruyungが5キロほどの距離にある。

IstanoはIstana、BasaはBesarがそれぞれ訛ってミナンカバウ語になったことを感じさせ
る。往来の穏やかな、緑濃く、明るく落ち着いたその旧街道に、その王国が持った豊かさ
をわたしは感じた。

パガルユン王国は領内で採れる黄金を大量に保有し、また米・コショウ・シナモンその他
の物産を豊富に産して豊かに栄えた国であり、古い時代には黄金境のひとつと見なされて
いた。北スマトラのマンダイリンMandailingやリアウのロカンフルRokan Huluなどもパガ
ルユン王国の支配下にあったようだ。

パガルユンとは元々パガルルユンpagar ruyungが語源で、ルユンという樹木のパガル(垣)
の意味だったと言われている。パガルユン王国はムラユ王国のひとつとして興ったらしい
が、建国説話ははっきりしたものがない。14世紀中葉に盛名を鳴り響かせたアディティ
アワルマンAdityawarman王がパガルユンの王座に就いた時期があり、かれはまた諸ムラユ
王国を従えたマラヤプラMalayapura王国の大王にもなっている。

アディティアワルマンの没後、1409年にマジャパヒッ王国の軍事侵攻があって、ソロ
ッSolokの東方にあるパダンシブスッPadang Sibusukで壮絶な戦闘が繰り広げられ、戦場
は死体で満ち溢れた。その腐乱死体がそこの地名の由来になったという話だ。地元説話は
ジャワの軍勢をミナンカバウ人が打ち払ったと語っている。[ 続く ]