「8人のトラ(2)」(2021年04月12日)

パガルユン王国のイスラム化は遅かった。スマトラ島北端に興ったイスラム国アチェがイ
スラム布教と政治支配の拡張を二本柱にした南下政策を推進し、軍隊とイスラム布教者が
続々と南へ下って行ったこと、スマトラ島西岸のシンキルSingkil、バルスBarus、シボル
ガSibolga、ナタルNatal、ティクTiku、パリアマンPariamanなどの主要な商港でインド洋
を渡って来たイスラム商人や布教者たちが定住し、イスラム化がミクロレベルの緩慢な進
展を起こしたことなどが、スマトラ島北部地域での宗教面における主な様相だろう。

商港なら個々人の必要性に応じてイスラム商人が住み着くのは当たり前のことであり、外
国人イスラム商人が地元の女を妻にしてその港における自分の家庭を築く姿は普通のもの
になっていた。ムスリムの家庭ができると、その家の妻と子供は必ずイスラム教徒になる。
子供が成人して家庭を持てば、またそれが繰り返されて人間のネズミ算が起こる。

それとはまた別に、イスラム布教を目的にする外国人ムスリムも容易に港に住み着くこと
ができた。階級差別を持つヒンドゥ文化へのアンチテーゼになる神の前の平等原理がヒン
ドゥ低階層の者を引き付ける魅力作りに使われたことはよく言われている。布教者たちは
十分に豊かなイスラムの学識を持っていて、イスラム神学を深めたい者にとっても、重要
な教師になった。

このレベルはまだ個人レベルのイスラム化であり、社会の中でムスリムと非ムスリムが混
在している段階である。イスラム教義の完ぺきな実践はイスラム社会の成立を前提にして
おり、社会全体がイスラムの原理で動くときにその構成員は全きムスリムとして生きるこ
とができる。そのイスラム原理で動く社会がウンマーと呼ばれるものであり、ムスリムと
非ムスリムの混在社会が完全なるウンマーになるためには、社会統治者が自らイスラム化
し、社会全体をウンマーにならしめるために被統治者全員をイスラム化に向かわせるよう
に指導して行かなければならない。

ウンマーが、あるいはイスラム王国が、他の土地の社会をイスラム化するに際して常に力
による闘争という暴力的流血的な方法に向かったのは、その原理のなせるわざだったので
はないかとわたしには思われる。宗教とは個人の精神的思想的なものでしかなく、社会の
あり方とは関係がないという観念はイスラムと無縁のものだ。ハラル・ハラムは個人が決
意して実践するような問題でなく、社会が個人(つまりは家庭)にその方向へ向かわせる
ように圧力をかけ、社会がその実践を監視するという形ではじめて神の前の平等が実現す
るというのがイスラムの平等であり、このポイントはもっと地に着いた理解がなされるべ
きではないだろうか。


パガルユン王国の民衆レベルには、14世紀終わりごろからイスラムの影響が浸透し始め
たようだ。そしてパガルユン王家の中に、イスラムを奉じた王も出た。しかし、トメ・ピ
レスが1512年から15年までの間に書いた東方諸国記Suma Orientalには、パガルユ
ンでは15年間でムスリム王はひとりだけだったことが記されている。

ミナンカバウでは16世紀を通してイスラム化が進展した。特にアチェのウラマがパガル
ユンの民衆と統治者にイスラム広宣を強く推進した結果、17世紀にはパガルユン王国の
イスラム化が果たされて王国からスルタン国に変わった。だがいつからスルタン制が行わ
れ始めたのかは明確にわからない。文献として最古のものはパダンのレヘントであるヤコ
ブ・ピッツJacob Pitsがパガルユンの王宮宛に書いた1668年10月9日付けの手紙に
記された「黄金豊かなミナンカバウの支配者スルタンアッマッシャSultan Ahmadsyah」と
いう賛辞だ。それ以後のパガルユン王宮は連綿とイスラム色が継続している。[ 続く ]