「イギリス人ウォレス(2)」(2021年04月12日)

ウォレスは1823年1月にウエールズのマンモッシャー州リャンバドックで出生した。
青年期は測量や土木技術の見習いからはじめて技師の仕事をも行うようになったが、科学
と世界の見聞、そして昆虫への興味などが若きウォレスを探検博物学へと向かわせた。
昆虫学者ヘンリー・ベイツと共に1848年にブラジルに向かい、1852年までブラジ
ルで探査と標本採集を行って珍しい標本をイギリスの愛好家に販売した。

続いて1854年からオランダ領東インドに向かい、広大な地域を探検して数多くの生物
標本を集め、また各地の状況や風俗習慣、原住民の生活状況などを記録した。1862年
に帰国するまでに、かれは125,660種の標本を集めたそうだ。鳥類だけで8,050種、7,500
種の貝、哺乳類310種、両生類100種、甲虫類83,200種、他の昆虫は13,400種を占めた。東
インドに滞在中も、かれはさまざまな標本をイギリスの仲介者に送ってコレクターや博物
館に販売した。

イギリスの自然史博物館、大英博物館、キュー王室植物園やエジンバラの王室植物園、大
英図書館などにはウォレスが送ったもの、ウォレスの没後に家族が寄贈したもの、あるい
はウォレスから買ったコレクターの遺族が寄贈したものなどが収められている。

ウォレスは自分用の標本コレクションを作り、余分なものは販売した。その膨大なコレク
ションの分析はいまだに終わっていないそうだ。4千7百種は新種として確定されている
が、まだまだ全部が片付いたわけではない。たとえば、キュー王室植物園にあるウォレス
コレクションでまだ片付いていないものは摂氏20度未満の涼しいハーバリウムで保存さ
れているものの、分析専門家がいないためにかなりのものがそのままになっている。キュ
ーのハーバリウムに置かれている標本は7百万件にのぼる。


ウォレスは種の起源と自然淘汰に関して副次的な位置付けに置かれ、極端なケースでは進
化論という題目がダーウィンのひとり舞台にされてしまった印象があるが、ウォレスは動
物地理学の分野でウォレス線というものにその名を遺した。

かれがロンボッ海峡〜セレベス海〜マカッサル海峡をつなぐ線の東と西で棲息動物と植物
の相が異なることに気付き、それをヨーロッパ社会に発表したのは1859年のことだっ
た。かれにその見解を抱かせたのは、スラウェシ・マルク多島海・ヌサトゥンガラが動植
物の宝庫だったことによる。かれはそこで多種多様な生物に出会い、それをジャワ・バリ
・カリマンタンのものと比較した結果がウォレス線の提唱につながった。おまけに「劣る
個体は滅び、優れた個体が生き残って、その種は自然環境に適したものへと変化する」と
いうダーウィンの進化論の骨格をなす適者生存原理をその地で考えつき、その仮説をダー
ウィンに手紙で相談したのである。

ウォレスがいなければダーウィンの進化論はどうなっていたかわからない、という評価が
起こるのも無理はあるまい。世界は今、スラウェシ・マルク多島海・ヌサトゥンガラで形
成される地域を英語でウォレイシアWallaceaと呼んでいる。ウォレイシアこそが進化論を
生み出した土地であるという見方がインドネシア人に誇りを持たせたことは疑いないだろ
う。ただまあ、そこまでの知識をインドネシア社会全般が持っているかどうかという話に
なると、わたしの声もトーンダウンせざるを得ないのだが。

ウォレイシアには697種の鳥が棲息していて、そのうちの36%にあたる249種が原
生種だ。哺乳動物は201種おり、123種が原生種である。このような場所は世界にざ
らにあるものではない。

ウォレイシアはアジア大陸およびパプア島〜オーストラリア大陸から深海によって切り離
され、その地理的な絶縁が動物の種の変化を促した。自然の変化への適応の優れていたも
のが生き残り、うまく行かなかったものは滅びた。そしてその適応が種に変化を起こさせ
た。新種の誕生が起こったのだ。ウォレスのロジックは的確だった。

ウォレスはウォレイシアを中心に置いた東インド旅行記をThe Malay Archipelagoという
タイトルの本にした。出版されたのは1869年だ。

それは旅行記であり、各地の動植物の観察記録であり、またさまざまな現地人の生態であ
り、社会状況の記録でもある。150年前のインドネシアの状況がつぶさにうかがえる深
い意味を持ったこの書がインドネシア語に翻訳されるまでに140年の時間を待たなけれ
ばならなかった。[ 続く ]