「8人のトラ(3)」(2021年04月13日)

統治支配者のイスラム化によってミナンカバウの慣習はイスラム教義に即したものに変え
られた。とは言っても、それまでライフスタイルの柱になっていた慣習とその基盤を成す
価値観がまるで異なるものにそう簡単に入れ替えられるわけがない。

個人のイスラム化はその傾向を持つひとびとに容易に起こっただろうが、社会のイスラム
化はその種とは毛色の異なるひとびとへの説得・懐柔・強制がなされなければ不可能なの
である。従来から伝えられてきた慣習とその中を流れている生きる事に関連する価値観を
入れ替えなければ、毛色の異なるひとびとのあり方を変えさせることはできない。それを
強制的に行なわせようとするなら、流血を避けて通ることはできるまい。

結果的に建前と実態の二分化が起こり、「双方の良いとこ取り」という姿に向かって行っ
た。この傾向はヌサンタラのイスラム化において、いたるところで見受けられたものだ。

総本山のメッカにあるライフスタイルが真のイスラムであり、それに全面服従しないイス
ラムは似非イスラムだという見方をする人間はムスリムにも、おまけにどうしたことか非
ムスリムにもいるのである。非ムスリムに批判されるイスラム教徒のあり方というのは、
奇異なものではあるまいか。非ムスリムがイスラムの理想像を描くという図は、わたしに
は信じがたい気がする。それはともあれ、イスラムヌサンタラを標榜する現代インドネシ
アが直面している問題は、宗教論による批判でなくサウディ文化宗主国思想を持つ人間の
存在のように見える。

ミナンカバウの慣習の大きい柱をなしている母系制は、その核部分から枝葉が派生して日
常社会生活の細部にまで入り込んでいる。イスラムの観点からそれを見れば、許すべから
ざる社会制度になることは容易に想像がつく。だが社会に住んで生きている人間のほぼ半
分は女性であり、母となるひとびとである。葛藤が起こらないはずがあるまい。


1803年、西スマトラのミナンカバウの地でイスラム純化運動が起こった。メッカから
帰って来た三人のハジがメッカで強まったワハブ派の復古運動に影響されて、故郷ミナン
カバウのイスラム生活のあり方が教義の本質から逸脱していることに改めて憤慨し、ミナ
ン社会で行われている根本制度から諸行為の末端に至るまで、イスラム教義に全面服従し
た日常生活を社会の中に実現させることを決意して、意識改革の呼びかけをミナン社会に
開始したのである。というのがパドリ運動あるいはパドリ戦争の序説に書かれている内容
だが、実相はもっと深いものなのだという話もある。

スマルディアンタの解説によれば、その三人のハジは生命を引き換えにしてヌサンタラに
イスラム勢力の基地を設ける任務をサウディ王アブドゥラ・イブン・サウッAbdullah Ibn 
Saudから与えられたとなっている。

アラブを支配下に置いていたオスマントルコの軍勢を1802年にワハブ軍が破ってサウ
ディアラビアの独立を成し遂げた。ワハブ軍がメッカを奪取したとき、トルコ軍の軍人に
なっていた三人のミナンカバウ人ハジ・ピオバンHaji Piobang大佐、ハジ・スマニッHaji 
Sumanik少佐とハジ・ミスキンHaji Miskinは捕虜になって鞭打たれた。しかしサウディ王
は三人の敵対者を死刑にせず、故国に帰ることを許した。三人に与えられた放免の条件が
故郷にワハブ運動の支部を設けることだったのである。その支部を発展させてヌサンタラ
から異教徒オランダ人を追い払い、遥か東方にサウディの同盟国を作るのがサウディ王の
目論見だったことは歴然だ。

サウディ王にとって自国の軍隊の近代化は急務であり、ハジ・ピオバン大佐を処刑しなか
ったのはそのための有用なコマのひとつと考えたからだ。ハジ・ピオバンはオスマントル
コ軍のイェニチェリ軍団の将校であり、ムハンマッ・アリ・パシャMuhammad Ali Pasyaが
指揮する1798年のエジプトにおける対ナポレオン軍との戦闘で活躍した軍人だ。その
ときの戦功を讃えて、ムハンマッ・アリはピオバンに名刀を授与している。[ 続く ]