「イギリス人ウォレス(3)」(2021年04月13日)

ウォレスがシンガポールの土を踏んだのは1854年4月18日で、3カ月近く滞在して
からマラッカを訪れ、そのあと11月にサラワクに入った。ボルネオ島の奥地まで転々と
移動を続けて1856年2月10日まで調査と採集を行い、再びシンガポールに戻ったの
は2月17日。かれはシンガポールをたいそう気に入ったようだ。人種と宗教と文化のる
つぼであり、あらゆるものがイギリスよりはるかに廉価で売られているなどとかれは書い
ている。


1856年5月23日、ウォレスはシンガポールから船でバリ島に向かった。かれの目的
地はマカッサルであり、シンガポールから直接マカッサルへ行くこともできたのだが、途
中でバリとロンボッに立ち寄ることにした。そうしたために、たいへん有意義な発見をす
ることができた。なにしろバリとロンボッの間では、地形も土壌もたいへんよく似ている
というのに、生物相が異なっていることを発見することができたのだから。

シンガポールから中国人商人の持ち船クンバンジュプン号に乗ったウォレスは、6月13
日にバリ島のメインポートであるブレレン港に到着した。ブレレンBulelengをウォレスは
Bilelingと綴っている。当時の現地人の発音がそうだったのだろう。

イギリス人船長とジャワ人乗組員が操るスクーナーのクンバンジュプン号はバリ島北岸の
穏やかでない海で投錨し、かれは船長と華人荷主と共に上陸すると、まず地元の華人バン
ダルbandarの家を訪れた。バンダルとは港の管理をゆだねられている大商人のことだ。そ
こには良い服装のバリ人が何人かいて、かれらは全員が黄金や象牙で飾られた柄のクリス
を持っていた。木製の鞘もよく磨かれ、木目の美しいものだった。

その家の華人は中華式服装をせず土着民の服装をしていたため、ウォレスには見分けがつ
かなった。近所で女の物売が綿製品などを販売しているのを見て、ここがヒンドゥ教の土
地であることをウォレスは再確認した。かの女たちは自分の夫のためにその仕事をしてい
るのであり、イスラム文化の土地では絶対に起こらないことなのだから。

客に果実・茶・ケーキ・甘いものなどが供された。そのあと、バリ人の村を見に行った。
村には高い土塀が取り巻いている竹製の住居が並び、住居の間を狭い道が通っている。か
れらが訪問した数軒の家は、突然の訪問にも関わらず、いずれも親切丁寧な応対をしてく
れた。

二日間の滞在中、かれは町の外に生物採集と土壌調査のために出かけた。これほどまでに
土地を隅々まで耕し、美しい姿にして利用している場所をわたしははじめて目にしたとか
れは著書の中で述べている。そのときまだジャワを訪れていなかったウォレスは、ヨーロ
ッパのどこにもこのような場所はない、と書いた。

多少の起伏を伴った平地が海岸から内陸部へ10〜12マイルほど伸びて、その先の森林
と耕作地で満たされた丘陵部に続いている。ココナツやタマリンドや他の果樹が密集して
目印を作っている家屋や集落が四方に散らばり、ヨーロッパで最高の耕作地帯にも誇り得
る整った灌漑システムが潤している豊かな水田がその間を埋めている。

水田は土地の起伏に合わせて、きわめてばらついた大きさに仕切られ、広い水田も狭いの
も完璧な水平面に作られて、しかも隣り合う水田は互いに高さを変えてある。各水田は給
水が自由に調節できるようになっていて、田ごとに水を満たしたり、水を干したりするこ
とができる。こうして同じ時期に、ある田では田植えをし、別の田では刈り取りを行うよ
うなことが行われている。

土地が広範囲に利用され尽くしていることから、野草は生育する場所がほとんどなくなっ
てしまい、海辺に野草を求めるしかなかった。昆虫のバラエティを求めるウォレスにとっ
て、自然の植生が必須であることは言うまでもない。現代のビーチ観光時代とは異なって、
当時のバリ人にとって海辺海浜は放置されて当たり前の場所だったのだろう。[ 続く ]