「8人のトラ(4)」(2021年04月14日) 三人のハジはミナンカバウに戻ると、イスラム純化運動を旗印に掲げた。この運動がパド リ運動gerakan Padriと呼ばれ、その運動に加わったナガリやルハッの宗教指導者たちと それに追随する民衆はパドリ衆kaum Padriと呼ばれた。 聖職者を意味するポルトガル語padreをパドリの語源に求める説もあるが、イスラム純化 運動を行うひとびとの精神構造には即していないような気がする。別の説によれば、アチ ェのペディールPedir王国(現在のピディPidie)でイスラムを学んだウラマたちがパドリ と呼ばれたそうで、こちらの説の方が受け入れられやすいのは確かだろう。 その一方で三人のハジはワハブ運動推進の母体となる軍隊編成に取り掛かった。かれらは トアンク・ナン・レンチェTuanku Nan Rencehと知り合い、強い支持を得た。トアンクと はミナン語の敬称、nanはyangの同義語、rencehはインドネシア語のlincahで、この人物 は多分戦闘の達人だったのがその名の由来のようだ。案の定、かれはパドリ軍の司令官に なった。 三人のハジはワハブ運動を広げるために、編成した軍隊によるバタッBatak人の土地マン ダイリンへの侵攻作戦を計画した。アラブのワハブ運動の支部をミナンカバウに設けるこ とは、ハンバリ・ゼアロッツHambali Zealotsのラディカリズム実践の先鋒になることで あったという見解を、書物トアンク・ラオTuanku Raoを1964年に著わしたバタッ人マ ~ガラジャ・オンガン・パルリンドゥ~ガンMangaradja Onggang Parlindunganは書いてい る。 三人のハジはハンバリの急進的理論を基盤に据えてミナンでのパドリ運動の様式を作り上 げた。その様式が世間を震撼させたのは、1804年にトアンク・レロTuanku Leloが行 ったスロアソSuroasoでのパガルユン王宮親族の虐殺事件だった。 王宮親族がパドリ運動に賛同しなかったことを理由にして、トアンク・レロの部隊はそこ にいた大王の親族全員の首をはねた。かれのその行為は司令官トアンク・ナン・レンチェ の「できるかぎりの残虐さを見せつけて、世間を震え上がらせよ」という指図に従ったも のだ、とトアンク・レロの子孫に当たるオンガン・パルリンドウ~ガンは述べている。ト アンク・ナン・レンチェのその言葉がテロリズムの本質論であることは今や語り尽くされ たものになっているではないか。 ハジ・ピオバン大佐がムハンマッ・アリ・パシャから拝受した名刀は、パドリ戦争におけ る軍功を賞してこのトアンク・レロに与えられた。 パドリ運動指導者の中核、つまりは初期パドリ軍の主要指揮官を成したひとびとが8人お り、かれらはハリマウナンサラパンHarimau nan Salapan、つまり8人のトラと呼ばれた。 ミナン語のsalapanはインドネシア語のdelapanだ。 トアンク・ナン・レンチェ、トアンク・パサマンTuanku Pasaman、トアンク・ラオ、トア ンク・タンブサイTuanku Tambusai、トアンク・リンタウTuanku Lintau、トアンク・マン シア~ガンTuanku Mansiangan、トアンク・パンダイシケッTuanku Pandai Sikek、トアン ク・バルムンTuanku Barumunがその8人である。 トアンクとは高貴なご主人様を意味する敬称であり、私のご主人様というプライベートな 関係を示す意味で使われたのではない。ミナンカバウではこの言葉が元々、王や王族の男 性に使われていたが、イスラム化のあとイスラムを極めた偉大な宗教者に対する敬称にも 使われた。 トアンクに似たトゥンクTengkuという言葉もある。トゥンクはムラユ文化の中の貴族の称 号であり、貴族の子供は男女ともにトゥンクの敬称を使った。ただし、父親がトゥンクで あれば子供は無条件でトゥンクを名乗ったものの、母親がトゥンクであっても父親がトゥ ンクでなければ、子供はトゥンクを名乗れなかった。 アチェではそれに似たTeungkuが成人男性の敬称として使われた。貴族であるかどうかと は関係がない。アチェには "Aceh teungku, Meulayu abang, Cina toke, kaphe tuan"と いうことわざがあり、トゥンクはアチェ人男性であることを示す敬称として使われている。 アチェでは、ムラユ人はアバン、華人はタウケ→トケ、ヨーロッパ人はトアンが敬称にさ れた。[ 続く ]