「8人のトラ(5)」(2021年04月15日)

パガルユン王国の各ナガリの宗教指導者がパドリの旗下に続々と馳せ参じて社会改革戦線
を形成する一方で、古来からの慣習を容認するイスラムを維持しようとするひとびとが急
進的なパドリ衆と対立するようになった。この勢力はアダッ(慣習)衆kaum adatと呼ば
れ、民生を掌握する民事行政がその中核を成した。王国なのだから、国内統治行政の要所
要所は王族に握られている。こうしてパドリ運動は現行政治制度に対する革命の様相を帯
びて来たのである。

ついに1815年になって、トアンクパサマン率いるパドリ軍がパガルユン王宮を焼き討
ちし、王宮は灰燼に帰した。近代装備と訓練の行き届いたパドリ軍に対抗できるパガルユ
ン王国軍ではなかったということだろう。

パガルユンの大王スルタン・アリフィン・ムニンシャSultan Arifin Muningsyahはインド
ラギリIndragiriのルブッジャンビLubuk Jambiに逃げて、王都はパドリ衆の支配下に落ち、
長期に渡って王権が空白状態になった。1818年にパガルユンを訪問したラフルズは、
焼け落ちた王宮を見るばかりだったと書き残している。


パドリ戦争の矛先は北スマトラのバタッ人にも向けられた。バタッのイスラム化が三人の
ハジの目標のひとつを成していたのである。これは宗教純化運動とはまったく無関係の、
ワハブ運動としてのイスラム拡張方針だ。

バタッ人に対するイスラム化の動きは長期に渡って行われて来た。古来からのバタッ人の
伝統信仰はパルマリムParmalimと呼ばれるものだ。北側のアチェ、西側のミナンカバウ、
東側のムラユによるバタッ領土内隣接地域へのイスラム化の動きは絶えることがなかった。
更にはバタッのイスラム化を危惧したオランダ人もキリスト教化を図るようになる。

インド洋に面した中部タパヌリTapanuli地方の商港バルスBarusがバタッ人にとって最古
のイスラム化の震源地だったようだ。マンダイリンMandailingの商港ナタルNatalでもイ
スラム化が進行した。ナタルがミナンカバウ人にとってイスラム学習センターになってい
たことは、トアンク・リンタウの経歴からもうかがい知ることができるだろう。

パドリ衆8人のトラのひとり、トアンク・リンタウはシナマル渓谷のリンタウに住む富裕
者で、イスラムを学ぶためにナタルに赴いた。更にそれを深めるためにパサマンに行って
師についた。1813年ごろ、かれはリンタウに戻り、タナダタルでイスラム純化の動き
を開始する。

アガムのトアンク・ナン・レンチェが行っているパドリ運動に感銘したかれは、即座にパ
ドリ衆に加わった。最初かれはパガルユン王宮が自分の活動のパトロンになることを希望
したが、そのうちに王宮のありさまを変えなければならないと思うようになり、大王の説
得にかかった。ところが大王の動きはかれの期待に反するものだったのである。こうして
最終的にパガルユン王宮への焼き討ち攻撃がかけられた。その攻撃を率いたのがトアンク
・リンタウでなかったことは、その攻撃がかれの本意でなく、強硬派に押し切られたもの
だったことを想像させる。

パドリ運動以前のイスラム布教は、穏やかで家族的な方法で行われたと言われている。布
教者は教義とその理を説き、個人の心に訴えることで理解させ、入信させた。王国統治者
のイスラム化もその方法が採られたようだ。しかしそのやり方では、イスラムに近寄る気
のない人間をムスリムにすることはできない。パドリ運動がそれ以前の布教方法と対照的
だったのは、パドリが暴力を使う急進的なものであった点に明白に現れている。[ 続く ]