「8人のトラ(6)」(2021年04月16日)

バルスやナタルから内陸部へのイスラム布教の動きは古くから起こっていた。タパヌリ南
部地方でも、ミナンカバウ商人がやって来て商売を行った。住み着けば、地元の女を妻に
する。そこでも、家庭レベルのイスラム化がバルスやナタルと同じように起こった。

アチェは北からイスラム布教を進めて、タナカロTanah KaroやパッパッPakpakにイスラム
を浸透させ、東海岸部のムラユ人はシマル~グンSimalungunにムスリムを増やした。


そんな状況の中でバタッ侵攻を計画していたパドリ衆中枢はひとつの奇貨に出会った。捨
てられたバタッの王族である。その名をポンキナ~ゴル~ゴランPongkinangolngolanと言う。
ナ~ゴル~ゴランとはバタッ語で「不明なものの到来を待ちわびる」という意味だそうだ。
この男はバタッ王シシ~ガマ~ガラジャの王女ガナ・シナンベラと王の兄ギンドポラン・シ
ナンベラの間に生まれた不義の子で、罪を背負った恥さらしという烙印を捺されて捨てら
れた。

アンコラAngkolaとシピロッSipirokで密かに成長したかれは、見つかればバタッ王宮に抹
殺されるだろうと考え、自分の運命から逃れるためにミナンカバウに向かった。ミナンに
逃れたら、王宮からの刺客にいつ襲われるか分からない不安を抱える暮らしから解放され
るにちがいあるまい。

ミナンでかれはダトゥ・バンダハロ・ガンゴに仕えた。ダトゥの親友であるトアンク・ナ
ン・レンチェがこのダトゥの使用人の境涯を知ったとき、かれは目をみはったのである。
なんと、バタッ侵攻にうってつけの人物ではないか。

トアンク・ナン・レンチェはダトゥからこの使用人をもらい受け、ウマル・ビン・カタブ
の名を与えてムスリムにした。更にウマル・カタブをパドリ軍の将校にし、トアンク・ラ
オの称号で指揮官にしたのだ。


1816年、白の長衣に白いターバン姿のトアンク・ラオが率いるパドリ軍は騎兵5千人、
歩兵6千人の大軍団でマンダイリンのムアラシポ~ギMuarasipongiになだれ込んだ。ルビ
スLubis一族が住んでいるムアラシポ~ギでは、ほどなく要塞が陥落し、住民は一人残さず
皆殺しにされた。

マンダイリンの各地区もひとつひとつとパドリ軍に蹂躙されて、すべての住民に対する殺
りくの嵐が吹き荒れた。タパヌリの中部と南部の境界に位置するシピロッでは住民をイス
ラム化してパドリ軍の兵力を増強した。現在シピロッのパサルになっている場所で騎兵と
歩兵の訓練が行われたとのことだ。増強された兵力は一千人を超えた。

パドリ軍はいよいよ、バタッ王国の中心部に進撃を開始する。ブキッバリサンとトバ湖渓
谷に囲まれた天然の要害も、パドリ軍の進撃を阻むことはできなかった。パドリ軍が装備
した多数の大砲と高性能銃はバタッ王国の軍隊をいとも容易に打ち破ったのである。


1819年、シシ~ガマ~ガラジャ王朝の首都バッカラBakkaraの征服を果たしたポンキナ~
ゴル~ゴランはシシ~ガマ~ガラジャ十世の首をはねた。別の説では、王都での戦闘でバタ
ッ軍を率いていた王が戦死したという話になっている。シシ~ガマ~ガラジャ十世は178
5年生まれで、30歳で王位に就き、34歳で没した。トアンク・ラオすなわちポンキナ
~ゴル~ゴランは1790年生まれであり、ふたりの年齢はそれほど違っていない。

バタッ人の歴史にとってのパドリ戦争がそれだった。パドリ軍はバタッ社会に恐怖を広め
るために血塗られた残虐さを存分にふるい、パドリ軍に殺されたバタッ人は10万人を超
えたと言われている。バタッ社会にとっての地獄が出現し、バタッ史の暗黒の一ページと
なった。オンガン・パルリンドゥ~ガンはそれをバタッ語でTingki Ni Pidariと書いた。
パドリの災厄がその意味だ。しかし歴史は、パドリの目的が達成されなかったことを物語
っている。[ 続く ]