「イギリス人ウォレス(5)」(2021年04月15日)

マタラムを抜けると、道は緩い上り坂になった。一行が美しい棚田の間の道を登っている
とき、コメを背に負った馬を引く地元民の長蛇の列とすれ違った。コメはアンペナンに運
ばれて、輸出されるのである。バリとロンボッの主要輸出産品はコメとコーヒーで、コメ
は平地で作られ、コーヒーは高地で作られている。コメの輸出量はたいへん大きく、ヌサ
ンタラの諸島からシンガポール、更には中国にまで送られている。

毎日、島の各所からアンペナンにコメが集まって来る、カーター氏の領分だ。原住民が受
取る金は中国の銅銭で、千二百個で1ドルになる。バリからは干し肉とオックステールも
輸出されている。ロンボッからはアヒルと仔馬だ。


午後1時ごろ、一行は目的地コパンKopang村に到着した。ウォレスはCoupangと表記して
いる。現在Desa Kopangはロンボッのプラヤ国際空港の北側にあってリンジャ二火山の麓
まで続き、島の中央部に位置している。

ロス氏がコパン村のプルブクルperbekelと面識があったことで今回の旅の内容になったわ
けだが、着いてみるとプルブクルはラジャを訪問しにマタラムへ行ったとのことだった。
プルブクルは村長を意味するバリ語だ。現代語はその形だが、昔はプンブクルpembekelと
いう異なる接頭辞が使われていたのかもしれない。ウォレスはPumbuckleと書いている。

ウォレス一行は馬をつないでから、表の日陰になっている竹製の床で待つように言われた。
しばらくするとプルブクルのマレー語通訳がやってきて用向きを尋ね、プルブクルはしば
らくすると戻るから待つようにと言われた。まだ朝食を摂っていないので何か食べるもの
を欲しいと頼むとすぐに用意すると返事されたが、ほんの気持ちだけのものがそれから2
時間後に届いた。二皿の白飯と小さい揚げ魚四尾、そして野菜が少々。

食後、ウォレスとロス氏は村の中を歩いてみることにした。ほどなく村人の男や子供たち
がやってきて、周囲を取り囲んで一緒に歩き、軽い会話などを交わして友好を示した。家
の中からは、扉を少し開いて夫人やお嬢さんたちが顔を覗かせ、視線をまじわせ、微笑み
を交わした。

午後四時ごろ、プルブクルがやっと姿を現わした。ウォレスが、標本採集の活動を行いた
いので数日間滞在させてほしいと頼んだところ、プルブクルはたいへんな迷惑が降りかか
って来たという空気を漂わせ、質問して来た。アナアグンAnak Agungの手紙はあるか、と。
アナアグンは地元民が使うラジャの別称だ。

ここに滞在したいのならアナアグンの許しを得なければならないとかれは言い、すぐさま
マタラムに引き返した。そんな小うるさい手続きなぞ必要ないと考えてやってきたロス氏
とウォレスはこの対応に戸惑った。

そのプルブクルは王族出身であり、現在のラジャに対する謀反の嫌疑をかけられることに
たいへんな気遣いをしていることがその様子からうかがわれた。ロス氏とウォレスも自分
たちがそんな疑惑の中に巻き込まれる可能性に思い至り、不安を抱くことになった。


陽が沈んで夜になったが、プルブクルは戻って来ず、おまけにだれひとりとしてこの一行
に近付く者もいない。夜9時ごろになって、やっとプルブクルが戻って来た。ラジャと高
僧たち、そして大勢の付き人たちが一緒だった。

ウォレス一行とラジャたちはすぐさま握手を交わしたものの、完全な沈黙が数分間周囲を
包んだ。それから一行は質問攻めにあい、逐一説明したがそのまま信じられた気配はなか
った。一時間ほど話し合いが続き、夜食が出て食事をしたが、昼にもらった食事並みのも
ので、揚げ魚のない飯と野菜だけだった。その後また話し合いが再開され、深夜一時ごろ
にお開きになり、ラジャの一行は帰って行った。

ウォレス一行は翌朝日の出と共に目覚めて様子を見た。一時間ほどしてマレー語通訳が来
たので、立ち去るからプルブクルに挨拶したいと言うと、プルブクルはラジャの所へ行っ
たと言う。一行が出発しようとすると、通訳はプルブクルが戻るまで待てと言った。また
その伝で一日を無駄にされてはたまらないとウォレスは立ち去ることを決めた。通訳は泣
き顔になっていたそうだ。[ 続く ]