「8人のトラ(7)」(2021年04月19日)

パドリ軍はバタッの地を征服した。だが、山野を埋め尽くした人間の死体が戦争の勝利者
に復讐をはじめた。バタッの地をコレラ菌が覆ったのである。バタバタと死んで行く兵員
に困惑したパドリ軍首脳はミナンに戻ることを提案した。結局パドリ軍はバタッ人を殺し
尽くしただけで去って行ったことになる。トアンク・ラオはミナンに戻り、その後の対オ
ランダ戦に従事して1833年1月に戦死した。


17世紀初めごろ、パダンをはじめとする西スマトラの海岸部はアチェの南下作戦によっ
てその支配下に落ちていた。パガルユン王国にとっては領土を奪われた形になっていたの
だ。

最初にパダンを訪れた西洋人は1649年のイギリス人だった。1663年にVOCがや
ってきて商館を開き、ミナンカバウ内陸部との通商を始めた。1668年にVOCは武力
でアチェの駐留部隊を追い出して、パダン地区の支配権を手に入れた。アチェはパリアマ
ンPariamanを重視してパダンの防備を手薄にしていたため、VOCにとっては赤子の手を
ひねるようなものだったにちがいあるまい。

パダンのレヘントになったヤコブ・ピッツはパガルユンの王宮に手紙を送り、最新状況と
VOCの立場を説明して黄金の取引を要請した。パガルユン王国は大量の黄金を保有する
豊かな国として知られていたのである。

VOCはパダンに港を開き、内陸部で産するコショウなどの物産や黄金を買い集めてバタ
ヴィアに送った。パダンはオランダ人のコロニーになった。VOCはパダンから南に向か
っての地域を独占し、かれらの商売敵になる者はそこでの取引を許さなかった。VOCの
独占に反抗する商人が反乱を起こしたこともあったが、成功することはなかった。


パガルユン王国の内戦としてのパドリ戦争はオランダ植民地政庁にとって対岸の火事だっ
たが、イスラム急進派の優勢が黙認できないものであったのは明らかだ。極端にイスラム
化したプリブミ王国は取扱いが容易でないことを植民地政庁は知り抜いていた。オランダ
側の利を得るために王国形態は残しながら人間を懐柔して操り人形に変え、原住民に示す
顔はあくまでも王国にし、裏側で実利を得る方式を玉条にしていたオランダ人にとって、
基本原理に西洋人への敵視を置くイスラム支配者は難儀な相手だったのである。

パドリ軍の攻勢にさらされたアダッ衆を統率するスルタン・タンカル・アラム・バガガル
Tangkal Alam Bagagarは万策尽きて、ついにオランダ植民地政庁への支援要請を決意した。
オランダ側が前から誘いをかけていた可能性は十分すぎるほど推測される。プリブミ支配
者の内紛に乗じてその地の実権をかすめ取ってしまう手法はVOC時代から続けられてい
たのだから。

1821年2月21日、スルタン・タンカル・アラム・バガガルはパガルユン王国代表者
としてオランダ植民地政庁との覚書にサインした。オランダ側は軍事支援の対価として、
王国の実権を受取る形にしていた。つまり、そのときにパガルユン王国が消滅したのだ。
バガガルにそのような契約を行う権限は与えられていなかったと見る意見が当時から強く、
後にタナダタルのレヘントに任じられたバガガルを売国奴と見なす見解が今でも語られて
いる。[ 続く ]