「8人のトラ(8)」(2021年04月20日)

1821年4月、パダン駐留オランダ植民地軍の出撃が開始された。攻撃目標地はタナダ
タルのシマワンSimawanとソロッSolokのスリッアイルSulit Airだった。その年12月に
は、パドリ軍への全面攻勢に出るべく、植民地軍部隊が続々とパダンに到着し始めた。

パドリ軍の制圧下にあったパガルユンの王都は1822年3月に植民地軍が奪還した。植
民地軍はバトゥサンカルにファン・デル・カペレン要塞Fort Van der Capellenを築いて
王都防衛の態勢を固め、一方のパドリ軍はリンタウLintauに拠って対オランダ戦の戦力再
編に当たった。

王都の保安が確保された後、オランダは逃走していた現役スルタンのアリフィン・ムニン
シャに王宮へ戻るよう要請し、1824年に実権のないスルタンがパガルユン王宮に戻っ
た。かれはタナダタルのレヘントになった甥のスルタン・タンカル・アラム・バガガルに
迎えられて王宮に入ったが、翌年8月に80歳の生涯を終えた。パガルユン王国最期の王
が没したのである。


1822年6月、王都を確保した植民地軍部隊はアガムAgamに向けて進軍した。戦闘を続
けて前進して行ったものの、8月14日にバソBasoで行われた攻防戦で苦戦に陥り、指揮
官の戦死も重なって、バトゥサンカルへの後退を余儀なくされた。パドリ軍はトアンク・
ナン・レンチェ指揮下での戦闘で戦意を大きく高めた。

1823年4月、植民地軍は再びリンタウ攻略に出撃したが、この時もパドリ軍の勢いが
強く、植民地軍は敗退して要塞に戻っている。1824年9月、オランダ軍はアガムの一
画を占領することに成功した。しかしそれ以後の戦況は一進一退を繰り返し、決着のつか
ない持久戦に入ってしまった。

パドリ軍の手ごわさに手を焼いた植民地政庁は休戦に方針を変えた。おりしも、ジャワで
ディポヌゴロの反乱が勃発し、軍事力をジャワに集中させなければならない状況に陥った
ためだ。その頃、パドリ衆の指導者になっていたのはトアンク・イマム・ボンジョルImam 
Bonjolだった。1825年11月15日に両者の間で和平協定が結ばれた。

かつてパドリ軍の司令官を務めていたのはトアンク・ナン・レンチェで、かれがムハンマ
ッ・シャハブをボンジョルのイマムに指名した。それ以後、ムハンマッ・シャハブはイマ
ム・ボンジョルという名で呼ばれるようになる。トアンク・ナン・レンチェが戦死したあ
と、トアンク・イマム・ボンジョルがその後継者になった。イマム・ボンジョルは軍司令
官ばかりか、パドリ衆全体の指導者に祭り上げられた。

イマム・ボンジョルはその休戦期間を利用してパドリ軍の戦力再編を行った。オランダ側
の状況が良くなれば、またミナンカバウ征服にやってくることが目に見えていたためだ。
このまま両者共存に移行することなどありえない。オランダの野望はそんな程度のもので
はないのである。

そう書くと、オランダ植民地主義を一面的に悪の位置に据えるインドネシアの一般論調と
同期することになる。インドネシア民族は平和愛好主義という主張をとやかく言うわけで
はないのだが、パドリ運動がワハブ運動だったことを忘れてはなるまい。戦備をやめれば
逆十字軍は成り立たないだろう。

それと並行して、イマム・ボンジョルはアダッ衆に対し、反オランダ闘争に加わるよう呼
び掛けを行った。問題は既に、宗教と慣習という二極対立から、オランダの参戦によって
反植民地運動という政治的なものに性格を変えていたのだ。呼びかけの結果、アダッ衆に
いた者がパドリ衆に加わって、パドリ軍の中に組み込まれる者も出た。パドリ衆の内部は
厳格なイスラムの規律に支配されている。元アダッ衆はそれを受け入れなければ、対オラ
ンダ反植民地闘争に加われない。オランダが共通の敵になったとたん、アダッ衆もイスラ
ム純化の方向に足を踏み出していたのは間違いあるまい。[ 続く ]