「8人のトラ(9)」(2021年04月21日)

ジャワのディポヌゴロ戦争が終結して植民地軍が体力を回復すると、軍靴の足音がミナン
の地に戻って来た。パドリ戦争が最初のままのパドリ衆とアダッ衆の宗教生活純化運動に
関する内戦でしかないのなら、この時点でそれはすでに解決済みになっている。ミナンの
地はよりイスラムがかった生活を平和に営んでいる民衆の地になっていたのだから、パド
リ戦争の関連でオランダ側に戦争を再開させる理由など存在しなかった。

元々、パドリ戦争という内戦にオランダが関わったのは、領土支配と物産独占が最初から
の目的だったのであり、それは内戦が終わろうが終わるまいが、何の違いもなかったので
ある。その政治と経済の方針を実現させるにあたってパドリ軍の存在が邪魔になるという
ことだけがオランダ側にあった戦争再開の理由だ。

植民地軍は軍事行動を開始して、まず銃器と火薬の生産地であるパンダイシケッを攻撃し
て占領し、ブキッティンギBukittinggiにデ・コック要塞Fort De Kockを建設した。まっ
たく一方的な休戦協定の破棄である。


1831年8月にパドリ軍の根拠地のひとつリンタウが陥落して、タナダタルは全域がオ
ランダの支配下に落ちた。1832年7月、ミナンカバウ平定の決着を急いだバタヴィア
は大兵力を投入してパドリ軍を一気に殲滅する方針に出た。アガムも植民地軍に制圧され
て、年末にパドリ軍はボンジョルに追い詰められた。

1833年1月、植民地軍はパダンマンティンギPadang Mantinggiで砦の構築にかかった
ところ、トアンク・ラオ率いるパドリ軍に攻められて多くの死傷者を出し、後退した。1
月29日のアイルバ~ギスAir Bangisでの戦闘でトアンク・ラオは重傷を負い、植民地軍
に捕まった。かれは船で運ばれる途中で死去し、遺体は海に投げ込まれたそうだ。

この1月には、タナダタルでアダッ衆が植民地軍に突然銃口を向けて襲い掛かる事件が起
こった。オランダ側はレヘントのスルタンバガガルに嫌疑をかけ、逮捕してバタヴィアに
流刑した。敵がパドリ軍だけでないことが明らかになったとき、植民地軍に動揺が走った。
ボンジョルのパドリ軍を攻撃しようにも、いつ背中から撃たれるかわからない状況になっ
たのだから。

1833年8月にはファン・デン・ボシュ総督がパダンに督励に赴き、ボンジョルへの力
攻めを命令した。大部隊がボンジョルに向けて進軍を始めると、パドリ軍ゲリラ部隊が植
民地軍を大いにかく乱し、大量の武器弾薬兵糧を奪うのに成功したため、植民地軍は結局
大攻勢を諦めた。ファン・デン・ボシュ総督はミナンカバウ平定に失敗したことを認めて
次の総督に交代した。

1834年はあまり大規模戦闘の起こらない年だった。オランダ側はボンジョルのパドリ
軍要塞総攻撃のために、大部隊の進軍と大型砲などを通すための道路と橋の建設にかかっ
ていたのだ。その工事のために地元民が強制労働に駆り出されたとのことだ。


1835年4月、ボンジョル域内のあちこちのパドリ支配地区を制圧する戦闘が始まった。
徐々に徐々に、ひとつまたひとつと、パドリ支配地区が植民地軍に奪われて行った。6月
にはボンジョルの丘の上にあるパドリ要塞がほとんど丸裸にされ、植民地軍の大中さまざ
まな大砲が丘の上めがけて砲弾を打ち上げた。

2千人の増援部隊が到着したので、植民地軍は6月21日にパドリ要塞突入攻撃を敢行し
たものの、不成功に終わった。要塞は完全な植民地軍の包囲下にあったというのに、兵糧
攻めは成功せず、それどころかボンジョル近辺のナガリからパドリ要塞支援の戦力や兵糧
が要塞に届くようになる。

時にはパドリ軍が要塞から出撃して植民地軍の陣地を破壊し、また逃げ戻るというような
ことも繰り返された。12月には近隣のナガリ住民がパドリ要塞を包囲している植民地軍
を後方や側面から攻撃することも起こった。[ 続く ]