「8人のトラ(終)」(2021年04月22日)

1836年、ボンジョルのパドリ要塞攻城戦は一進一退を繰り返した。その12月3日、
植民地軍は総力をあげての一大攻撃を開始する。そしてついに要塞の一角が崩れ、植民地
軍部隊が中への侵入に成功した。しかしパドリ軍も全力をあげて応戦し、最終的に侵入し
た植民地軍部隊を追い払ったのである。

こうしてまた小規模な戦闘の繰り返しというにらみ合いに戻った。このボンジョル要塞攻
城戦にオランダ側が注ぎ込んだ戦力はヨーロッパ人将校148人、プリブミ将校36人、
ヨーロッパ人兵員1,103人、プリブミ兵員4,130人で、植民地軍プリブミ部隊は
ジャワ・マドゥラ・ブギス・アンボンなどの種族から成っていた。

1837年7月にはさらに黒いオランダ人、ガーナやマリで雇われたアフリカ人兵士11
2人と下士官5人がオランダ人指揮官に率いられて到着している。そのような大軍団がパ
ドリ要塞を包囲して少しずつ要塞の戦力を消耗させ、8月15日に総攻撃をかけてついに
要塞を陥落させた。8月16日にはパドリ側の抵抗が完全に終息した。だがトアンク・イ
マム・ボンジョルは捕虜の中にも死者の中にもいなかった。かれは少数の従卒を伴ってマ
ラパッMarapak地方に逃れたのである。

トアンク・イマム・ボンジョルは隠れ場所に逃れたあと、パドリ軍の戦力再編を試みた。
だが、ボンジョルのパドリ要塞から逃亡できた者は数少なく、新たにパドリ軍に参加しよ
うという人間も少なかった。かれを待っていたものは絶望だけだった。


1837年10月、トアンク・イマム・ボンジョルはオランダ植民地政庁に投降した。か
れが投降の条件に出したのは、共に戦火の中を歩んで来た息子ナーリ・スタン・チャニア
ゴを植民地政庁の行政高官に採用させることだった。

1838年1月、政庁はイマム・ボンジョルをジャワのチアンジュルに流刑し、年末にア
ンボンに移した。そして1839年1月にアンボンから北スラウェシのミナハサに移し、
そこがトアンク・イマム・ボンジョルの末期の地になった。かれは1864年に死去する
までの間、回想録を書いた。その中にはワハブ運動宗教者の残虐さに対する遺憾の意が記
されている。

ところで、ボンジョルのパドリ要塞陥落がパドリ運動の終幕だったのではない。リアウ州
ロカンフルRokan HuluのダルダルDalu Daluに作った要塞でトアンク・タンブサイの指揮
下に行動していたパドリ軍が撃滅されて、やっとスマトラの大地からパドリ軍なるものが
姿を消したのである。ダルダル要塞陥落は1838年12月28日だった。トアンク・タ
ンブサイはマラヤ半島ネグリスンビランに逃亡した。植民地政庁はそれをもってパドリ運
動の完結としたのである。


パドリ戦争が何であったのかという命題を眺めるとき、単純なものの見方は許されないだ
ろう。オランダとの戦争を反植民地戦争という一辺倒の視点で見るよりも、互いに通商独
占権を握ろうとして相手を蹴落とすために行った戦争という点を見落としてはならないと
論じる西洋人歴史家もいる。

戦争が軍費なしに行われることなどありえないし、軍費を支出するのはもっと巨大な収入
を得る目的がその裏側に付きまとっているのが世界の常識であるのも忘れてならないこと
だ。オランダ側がパダンからその南部にかけての一帯でパドリ衆を完全に閉め出したこと
が、パドリ衆がパダンの北側にあるマンダイリンやラオの黄金の産地を握りしめることを
促した。パドリ衆もその地域での商売を独占し、商売敵が通商することは許さなかったの
である。

パドリ衆が軍費を必要としていたことは明らかであり、パドリ軍が攻撃を行えばたくさん
の人間が捕まって奴隷にされた。軍事攻撃でなくとも、女を拉致誘拐することは日常茶飯
事だったようだ。捕まえた人間は奴隷にして売り払った。だが、そればかりでなく、軍事
行動の労役に使ったりもした。おまけに戦闘員予備軍にさえしたため、パドリ軍の兵員が
まるで無尽蔵のように現れたのである。あれほど長期に渡った戦争でパドリ軍の兵力が長
続きしたのはその仕組みのおかげだったそうだ。[ 完 ]