「アチェの分離主義(1)」(2021年04月23日)

サビリラ戦争
ムジャヒディンは戦う宗教軍
聖戦におけるシャヒッの死には
アッラーが天女を授ける

アチェ人は子供のころから、戦場における戦士になることを教えられてきた。アッラーが
定めた道を歩むことをサビリラsabilillahと言う。神の道を歩む者がフィサビリラなので
ある。アッラーの道を全うするための戦争が神の道の戦いであり、サビルsabilが道を意
味しているので、アチェ人は神の道の戦いをperang sabilとも呼んだ。武力謀略をもって
支配しようとのしかかってきた異教徒(kafir、アチェ語でkaphe)を打ち払うことがアチ
ェ人の眼前に出現したサビル戦争だった。

冒頭の四行はサビル戦争物語Hikayat Perang Sabilの一節だ。サビル戦争物語は1710
年にシャイッ・イブン・ムサの書いた著作から取られたものと言われているが、1834
年にシャイッ・アブドゥル・アルサマッが著した作品から1894年にトゥンク・アッマ
ッ・チョッ・パルエが改作したという説もある。

かつて、アチェ人の大人はだれもがサビル戦争物語を暗唱した。みんなが声をそろえて唱
えると、死の恐怖は消え失せて、死地に赴く興奮が心身を包んだ。サビル戦争物語はアチ
ェ人の心にジハードの歓喜を掻き立てることができた。そのために、最新兵器を装備した
侵略軍さえアチェ人を容易に屈服させることができなかったのである。

圧制支配に反抗する戦争は老若男女から子供に至るまで、ムスリム全員にとっての義務で
あることをサビル戦争物語は説いている。そのためにオランダ植民地政庁が起こしたアチ
ェ戦争の中で、頻繁に女子供が戦闘に加わって生命を落とした。どうしてそのような総力
戦を物語の作者は鼓吹したのか。

オランダが起こしたアチェ戦争がアチェ人にとってのサビル戦争だったという印象が強い
のは、サビル戦争物語が盛んに語られたのがその時期であったということ、またアチェス
ルタン国が勃興して以来はじめての全国土防衛戦であったために民衆総力戦の意識を呼び
覚ますのが容易であったこと、などがあげられるだろう。そのあたりの様相と背景はなん
となく、大日本帝国末期の民族総力戦にオーバーラップしてくる。


圧倒的な優位にある兵器を装備した強力な外敵をアチェは常に相手にしなければならなか
った。東南アジア一帯で最大の商港だったマラッカを奪取してマラッカ海峡を独占したポ
ルトガル人がスマトラへ通商・布教・イスラム打倒の矛先を向けるようになる時期に、ス
ルタン・アラッアディン・リアヤッ・アルカハルAla'addin Riayat al Kahar(在位15
39〜1571年)はオスマントルコに使節を送ってヨーロッパ人の侵略に対抗するイス
ラム側の状況認識と見解の統一をはかっている。そのとき、相互に軍事支援を行う協定が
結ばれた。

それがアチェのアラブ世界への外交の草分けだったとする見解もあるが、国際政治外交と
いう面でのものという捉え方がなされるべきだろう。メッカを統治する行政機構との接触
がそれ以前にまるでなかったはずもあるまい。

その結果、オスマントルコはアチェへの軍事支援のひとつとして駐留軍をアチェに派遣し、
新型砲を持つその部隊はアチェ軍に加わって土着化した。現代アチェ人の中に紛れもなく、
トルコ人の遺伝子を持つ者が混じっている。[ 続く ]